創#272「ピコデラミランドラは、人間が自由意志を持つことを、人間の尊厳だと言ったわけですが、自由意志は、上手に制限する事が、やはり必要です」

         「降誕祭の夜のカンパリソーダー9」

 中沢先輩は、アパートに入居できる明後日まで二日間、自分のアパートの部屋で宿泊しろと言ってくれた。が、それを丁重に断って
「二日くらいは、取り敢えず、そこらで過ごします。東京じゃ、何やっても食って行けるし、何とか暮らせると、先輩は手紙に書いて下さいました。なるべく早く、何やっても暮らせるという要領を身につけたいです」と、私は中沢先輩に伝え、野菜焼きと焼きそばを御馳走になった礼を言って、東中野の焼き肉屋の前で、先輩と別れた。
 私は新宿に向かって歩き始めた。地図は持っていたが、それを見る必要はなかった。新宿西口の巨大な高層ビルが、すぐそこに見えていて、それを目指せば、自ずと新宿に到着する筈だった。
 13、4歳の頃、K市の繁華街でオールナイトで過ごしたことは、数え切れないほどあった。先輩と一緒に怪しげな中華ソバ屋に入り、そこの椅子に座ったまま眠って夜明けを迎えたり、オールナイトの映画館に入って(たいがいポルノだった)後ろの方の席で、音が聞こえないように、ちり紙を耳に詰めて眠ったり、橋の下の不良少年団のアジトの小舎に泊めてもらったり、肥料の倉庫に入って、そこで寝たりと、まあ、何やかや工夫して、ヤサぐれていた時代を凌いでいた。
 が、警察の少年課に補導されたら、間違いなく、矯正教護院送りになるので、そこは神経を張り詰めて、人を観察していた。13、4歳の感性は、いくら私服を着ていても、相手は警察官だと即座に判別できた。夜、徘徊している少年を、保護(というより捕縛)することを趣味にしているような保護司(?)もいた。いろいろと、評判の良くない(少年好きみたいな)保護司(?)もいて、そういう危ない保護司(?)の顔は、もうことごとく覚えていた。
 ちゃんとした家庭の子供は、深夜、保護されても、保護者に引き渡されて、それで結着が着くが、私のような、片親で、母親がオールナイトで水商売の仕事に従事しているような家庭の子供の場合は、保護者は指導監督できないということで、即座に矯正教護院送りになる。それくらいの社会の仕組みは、13、4歳の頃は、充分に心得ていた。だから、中学生の頃は、身体を張って、夜遊びをしていたと言える。矯正教護院に行っても、何とか如才なく凌いで行く自信はあったが、行かない方が望ましいだろうと判断していた。
 19歳の大学生だったら、夜、繁華街の裏路地を歩いていて、たとえ警察の職務質問を受けても、大学生という身分を明かせば、即座に解放される。リスクのない夜遊びの自由を手に入れたわけだが、中学時代のはらはらどきどき、緊張しながら、夜、徘徊していた頃の方が、はるかに面白ろかった。自由というものは、いざ手に入れてみると、無条件にhappyなものだとは言えない気がした。ルネサンス時代のピコデミランドラは、「自由意志で人間は、何にでもなることができる、それが人間の尊厳だ」と、言ったわけだが、それは、それまでの中世の千年間、神が中心で、人間にとって不自由極まりない時代が長く続いたので、きっぱりと自由が、人間の尊厳を担保すると言えたわけで、現代の我々は、自由と不自由とをバランス良く上手に組み立てないと、人間は、自由を扱い切れないという気もした。
 私は人並みに受験勉強をした。受験勉強によって、高校生の自由は、明らかに制限されてしまっていたが、それほど必死になって、受験勉強ばかりやっていたわけでもないし、受験勉強をせず、指定校推薦などで、大学に進学したりすることは、自由過ぎて、高校時代をトータルで見た場合、逆にマイナスだろうという気もした。
 高3の時、指定校推薦で、筑波大に進学しないかと、進路部の先生に勧められたことがあった。恩師のS先生にそのことを報告すると「筑波みたいなクソみたいな大学には行くな。ちゃんと受験勉強して早稲田に行け」と、きっぱりとアドバイスされた。筑波がクソみたいな大学だとは、私は思ってなかったが、かつての勤評闘争の生き残りの老闘士であるS先生にとっては、管理主義的な筑波大は、論外だったんだろうと想像できる。まあしかし、どっちにしても、筑波のような田舎の大学に行く気持ちは、1ミリもなかった。四国の片田舎の私にとって、進学先は花の都、大東京以外は、考えられなかった。
 新宿に到着して、西口の地下道に入った。段ボールを敷いたプーのおっちゃんたちが、寝そべったり、ワンカップの酒を飲んだり、グループで飲みながら喋っていたりした。プーのおっちゃんたちが、沢山、蝟集している光景は、大阪でも見た。大阪のプーのおっちゃんは、飲んでわぁわぁ騒いでいるタイプが結構いた。西口に沢山いるプーのおっちゃんたちの中で、騒いでいるおっちゃんは一人もいなかった。集まって飲んでいる場合も、普通に議論をしているだけで、大声で叫んだりはしてなかった。静かで、おとなしめ、周囲に迷惑をかけてないおっちゃんたちだと感じた。
 川端康成の「東京の人」は、文庫本三冊の長編だが、最後、主人公の男性は、プーのおっちゃんになる。人生の最後に行き着く先が、プーのおっちゃんだという小説の構成に、ちょっとカルチャーショックを受けた。この小説は、当時の川端康成の全集には入ってなくて、古本屋で文庫本を見つけて購入し、高2の時、読んだ。人生の最後がプーのおっちゃんという生き方が、東京では普通に許容されていると知って、正直、目から鱗が落ちたような気がした。考えてみると、川端康成の名作「みずうみ」の主人公も、プーのおっちゃんみたいな人だった。
 わざわざ剃髪、出家しなくても、東京じゃあ、プーのおっちゃんになれば、何もかも捨て去ることができると感じた。別段、後悔などもせず、ほぼ確信犯的なプーのおっちゃんも、この中には多分いるなと、西口地下街の様子を見て、想像できた。大阪のプーのおっちゃんは、わぁわぁ騒いで、その存在が、多少は迷惑だったりするが、私が見る限り、東京のプーのおっちゃんたちは、静かで誰にも迷惑をかけてない。大阪だと、地下街に新聞紙を敷いて寝る場合、周囲にいるプーのおっちゃんたちに、「今晩、一夜だけ、ここで寝かして下さい」と、断る必要があったが、東京では、そういう挨拶は、多分、不要。人間同士のコミュニケーションも、さして求めてなくて、スタンドアローンのプーのおっちゃんが、西口にはどっさりいると感じた。
 自分自信が、将来、プーのおっちゃんになることは、さすがに考えられなかった。結構、清潔好きで、毎日、必ず髪を洗っているので、プーのおっちゃん的な生活は無理だった。が、東京じゃ、とにかく、何をやっても暮らして行けるということは、西口の地下街の様子を見ても、確信できた。
 大学を卒業して、郷里に帰ったとしても、どっか他の地方の都市で暮らしてたりしても、人生、行き詰まったら、securityがしっかりしていて、セーフティネットも備わっている、東京に舞い戻ってくればいいと、東京に上京した初日に、はっきりと理解した。

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