自#972「私が人生で関わった大きな物語は、伊方の原発反対闘争だけです。結論を言うと、大きな力によって挫折させられました。若い頃、挫折したり、人に裏切られたりした経験がある方が、より強くて、したたかな人間になれます」

          「たかやん自由ノート972」

 久々に週刊誌(週刊現代)を買って、「デジタルは人間を幸せにしたのか」という記事を読んだ。デジタルをテクノロジーという風に読み替えても構わないと思うが、テクノロジーの進歩は、人間の生活を便利にしたことは間違いないが、便利=幸せ、ではない。
 夏休みに入って、50'sのジャズボーカルとかポップスを聞いているが、自分が想定していたよりはるかに多くの曲を聞いていたという事実を発見した。40'sの曲も、結構、耳にしたことがあった。簡易レコードプレーヤーを買ったのは、小4の夏で、それまでは、ずっとラジオで音楽を聞いていた。次にいつ聞く機会があるのかは、まったく解らない。今のこの出会いを大切にしなければいけないという「一期一会」的な意気込みで、耳をダンボにして、listen toしていたんだろうと推定できる。
 レコードプレーヤーを購入し、レコードソフトがあれば、いつでも聞けるという便利な状態に置かれてしまってからは、一期一会的な意気込みは、なくなってしまった。今、自宅にCDは、1800枚(洋楽は1500枚)くらいはあるが、小5の頃は、ソノシートを別にすれば、LPレコードは、10枚くらいしか持ってなかった。CDとレコードとの違いは、まあさて置くとして、1800枚保有している今よりも、10枚しか所有してなかった小5の方が、より幸せだったと想像できる。モノの多寡は、幸せとは、まったく関係ない。
 デジタルは、情報を天文学的な数値にまで、増大させた。産業革命が大量生産と大量消費のシステムを、確立したように、インターネットやSNSが、大量の情報を、大量に消費する仕組みを確立した。私も、noteを書いているので、デジタルやインターネットの恩恵は受けている。印刷もせず、封筒も切手も使わず、ネットにupするだけで、そう多くはない特定の読者が読んでくれる。感謝しなきゃいけないし、これはまあまあ、プチ幸せなactivityじゃないかとすら思ってる。私のnoteのフォロワーは、100人そこそこだし、別段、影響力も持ってない。知る人ぞ知る的な超マイナーなnoteに留まっていることに、充分、満足している。一人か二人に、それなりに刺されば、自分の文章は、役目を果たしていると納得できる。
 親しくさせてもらっている情報のY先生は「チャットGPTは、創作を楽しんでいる人には、何の関係もない」と、指摘していた。
 私が文章を書くのは、考えることが好きだからということに尽きる。考えまで至らず、夢想、白昼夢、妄想ぐらいの元ネタであっても、文章を起こすとなると、考えなきゃいけなくなる。プログラムの順番、論理の整合性、言葉の適否などを考えながら、文章の全体を整えて行く。
 私は、24、5歳の時、伊方の原発反対運動に、弱小単産の青年部の現場指揮官みたいなポジションで、関わった。それが、私の人生で関わった、唯一の大きな物語だったと思う。戦争には徹頭徹尾反対だし、原発にも絶対反対。そこは、若い頃から、一ミリもブレてない。が、大きな物語に関われるのは、やはりエネルギーとpowerのある若い頃だと言える。
 私は飛行機には乗らないし、冷房も嫌い。生活を便利にする電化製品は、できる限り遠ざけている。が、これは、私個人が日常的にやっている、ごくごく小さな物語。私一人が(私の家族もだが)冷房を使わないからと言って、原発廃止などには、絶対につながらない。 小さな物語では、世の中は変わらない。が、私自身のスタンスを整え、筋を通すことはできる。私は、スマホも持ってないし、SNSも利用しないが、これだって、別段、周囲に何らかの影響を与える訳ではない。自分自身の自己満足のスタンスとして、スマホとSNSを遠ざけているだけのこと。
 デジタルと幸せとは、何の関連もないということくらいは、常識として理解している。が、まあネットやSNSは、人間性の闇の部分を、可視化してしまったという気はしている。憎悪や対立、嫉妬を生む情報を全面に押し出すことによって、ユーザーの注目を集め、広告収入を稼ぐ。SNSのプラットフォーマーたちは、資本主義の論理によって行動している。利益を生み続ける、これは資本主義の根底の論理。人間の負の感情に訴えて、注目を集めることは、道徳的だとは言えないが、資本主義と道徳とは、まったく無関係。
 内田樹さんが、アマゾンが自動運転のテクノロジーに、巨額の出資をしていることを、指摘している。全米のトラックの運転手は、350万人。自動運転が可能になれば、彼等は、全員、失職する。自動運転は365日、24時間稼働して、休憩もしないし、食事も摂らない。人間は、到底、太刀打ちできない。
 自動運転が可能になれば、連邦政府や州政府は、35万人の失業者が、再就職できるようにする必要かある。当然、税金が投与される。350万人の失業者が、いきなり生み出されていいかどうかを、最後判断するのは、政治の仕事だと言える。
 SNSでバッシングを浴びて、自殺をする人がいる。SNSをやらない私にしてみると、「SNSを見なければいいのに」と、単純に考えてしまう。が、アルコールや薬物と同じで、SNS依存症になっているんだろうと想像できる。アルコールや薬物の場合、隔離した保護施設で暮らして、依存症から回復するシステムが、存在する。ゲーム依存の場合にも、似たようなシステムがある筈。SNS依存症も、そういった救済の仕組みが必要だろうと想像できる。
 他人の批判や意見というのは、やはり直接対面して、聞くべきだと思う。私は長年、文章を書いているので、書き言葉の冷たさというものは、理解している。書き言葉が冷たくならないためには、かなりのレベルの国語力と、書くための訓練が必要。文章は本来、ネガティブなもの。ネガティブな文章の方が、書き易い。キーボードで打つよりも、手書きで書いた方が、多少、ポジティブな文章になるが、まあ、もう手書きを要求するのは、難しい時代だろうと推測できる。

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