自#435「どうしてアルコールをやめたのか、自分でもきちんと理由が説明できなかったんですが、今回、『ガリア戦記』を読んで、『あっ、そうだったのか』と理解しました。幾つになっても、理解できることは喜びです」

         「たかやん自由ノート435」

 カエサルの「ガリア戦記」を読みました。私は普通の人よりは、はるかに多く本を読んでいますが、読んだのは主に小説を中心とした文学関係です。歴史系は、著名なものであっても、ほとんど読んでいません。高校の歴史の教員を37年間も続けて来て、いまだに「ガリア戦記」すら読んでなかったとかって、不勉強極まりないと、指弾されたとしても、反論できません。が、勉強はいつ始めても、遅すぎることはないってことになってますし、今年の夏休みは、ヨーロッパの古代、中世の古典を少し読んでみようと考えています。その手始めにプルタークを多少かじり、ガリア戦記を紐解いてみたわけです。

 ちなみに、私はすでに夏休みモードに入っています。学校には5分前行動という不文律があります。5分前には準備を整えて、スタンバイするという意味です(日頃はさほど守られてませんが、修学旅行の時などは、結構、生徒は5分前行動を心がけてくれます。今の若者も、昔の根性のあった時代の若者同様、やればできるってことです)。

 私は、イベントの一ヶ月前行動を、心がけています。夏休みもある意味イベントです。今年は去年と違って、普通に7月21日から夏休みに突入する筈です。私は、一ヶ月ちょっと前倒しして、夏休みモードに入りました。イベントに限らず、モノゴトは、何ごとも前倒し、前倒しで取り組まないと、時間に追われまくって、結局、何ひとつ完成できなくなります。時間だけが、慌ただしく過ぎ去ってしまいます。受験生は、夏が勝負だと言われています。「夏を制するものは受験を制する」。これは、昔から言われているMaximです。夏を夏休みのことだと勘違いしている生徒がいます。違います。夏は6月から始まっているんです。6月上旬に体育祭がある学校が多いと思いますが、体育祭が終了したら、翌日から夏です。その日から、高3は受験の夏をstartさせ、高2でしたら、17歳のめちゃめちゃenjoyできる夏を始動させるべきなんです。こんなことは、高校生が当然、知っておかなければいけない常識だと、私は思っていますが、どうやら最近の高校生は、そういうことは、まったく心得てないらしく、昨日の授業のopeningで
「いよいよ、高2の夏が始まりましたね」と話しを振っても「えっ、それ何?」って感じで引かれました。6月中旬の今ぐらいから、高2の夏を、gorgeous(ゴージャス)に過ごす体制を整えておかないと、結局、何ひとつ実りのないまま「夏が過ぎ風あざみ、誰のあこがれにさまよう」って感じで、知らず識らずの内に、秋風に包まれてしまいます。

 前説で、原稿用紙を2枚以上使ってしまいました。gdgdの授業の日が、こういうopeningです。で、結局、最後までgdgdで、生徒はこういうgdgdの授業のコンテンツを、案外と覚えてくれたりしているものです。もっとも、noteも同様だとは、さすがに考えてません。

 生徒に「ガリア戦記」を読んでみたらと、勧めるつもりは、1ミリもありません。老人になってようやく読んだ本を、pushしたりしたら、それこそ偽善です。高2でしたら、サンテグジュペリの「夜間飛行」、アンドレジイドの「狭き門」、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」、内田樹先生の座右の書のオルコットの「若草物語」、ヘッセの「郷愁」等々、読むべき本は、枚挙にいとまないほど沢山あります。高2の夏休みに、生涯に残る読書体験をしておきたいのであれば、それはやはりトルストイの「戦争と平和」です。私は、ドストエフスキィー推しですが、世界文学のNo1は、やはり「戦争と平和」です。ピエールとナターシャの個人の恋愛が、ナポレオン戦争に垂直にぶつかって拮抗しています。人間にとって、恋愛が如何にマグナム(偉大)であって、foreverなものであるのかと云うことを、解らせてくれる壮麗な叙事詩ともいうべき大文学です。日本の私小説とは、骨格もスケールもまるで違います。

 カエサルは、さほどのイケメンでもなく、頭も若い頃からハゲていましたが、女性にはモテました。ひとつは、やはり仕事のできる切れ者だったからです。名門出身で、バリバリ仕事ができて、金は糸目をつけずどんどん使い、記念日のプレゼントとかもぬかりなく配慮できる人です。ロードス島の雄弁術の塾では二番の成績でしたが、喋りもとんでもなく巧みです。

 私は、中学生の頃、喋りの得意なNくんという同級生と親しくしていました。Nくんは、相手が聞いて喜びそうな話をします。相手のちょっした行動、発言も、細やかに拾って持ち上げます。私は、Nくんほどは饒舌に喋れないし、それに相手を喜ばせたいとも別段、思ってません。ただ、教職について、担任として個人面談をする時は、相手の意識の底にある、本当に喋りたいことを、喋ってもらう努力はしていました。

 カエサルは、simpleに、相手を安心、安堵させます。カエサルに従っていれば、悪いようには、絶対にならないと、信じさせてくれます。飴と鞭というフレーズを使うと、明らかに飴が多く、鞭が極めて少ない人です。信頼はされますが、時として裏切られます。

 今回、ガリア戦記を読んで、ガリアとゲルマニアとは、まったく違う世界だとはっきり認識しました。ガリアはローマの文明を享受しています。ゲルマニアの人たち、つまりゲルマン人は、文明の享受を拒否している野蛮人です。スパルタはポリス生活の中で、sophisticatedされた野蛮人になろうと努力していました。476年の大移動前のゲルマン人は、ほぼ純粋無垢、authenticな野蛮人です。ゲルマン人が移動したあと、バルト海沿岸に残っていたノルマン人も野蛮人でした。野蛮人ですから、文字も知らないし、文化も残してません。が、野蛮人のエネルギーが、21世紀のソドムとゴモラの町のような、大都市の片隅に住んでいる、もう転ぶのが怖くてサンダルもスリッパも履けなくなってしまっている、老教師の私のheartにも、幾分かは伝わって来ました。

 ゲルマン人は、酒が輸入されることを許しません。酒は人間を弱くすると考えています。スパルタだって、食事は不味いんですが、酒は普通に飲んでいました。私は、30歳でアルコールをやめました。何故やめたのか、理由はいろいろありますが、結局の所、アルコールは、人間を弱くするということを、多分、本能的に知っていたから、やめたんだろうと、今回、ガリア戦記を読んで、理解しました。大きな謎が、ひとつ解けました。やはり、古典は偉大です。

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