自#404「バカな人を避ける、これは、基本です。朱に交われば赤くなります。賢さも伝染します。賢い人とつきあって、如才なく、上手に生き抜いて行く。まあ、ですが、できなくても、問題なしです。私も、どっちかと言うと、できなかった方です」

          「たかやん自由ノート404」

「転換期を生きるきみたちへ」のメッセージ集の中では、仲野徹さんがお書きになった、「科学者の考え方」が、もっとも根源的に書かれていて、腑に落ちました。「根源的に」は、「基礎的に」と言い換えても構わないと思います。私たちは、科学は解るもの、形而上学は解らないものと、simpleに決めつけてしまいがちですが、仲野さんのメッセージを読んで、科学も結局は解らないものだという当たり前のことに、気がつきました。

 コペルニクスが登場するまでは、天動説が真理だと思われていました。コペルニクスやガリレオが地動説を唱えて、その後、多くの人が地動説を信じるようになり、パラダイムはシフトしました。はっきり言えることは、天動説が地動説にパラダイムシフトしたという事実です。そのことは、地動説の「真実」を担保するものではありません。地動説は、今多くの方が認めているメジャーな説だと言うことです。別の説が出て、それがまた新たなメジャーになるのかもしれません。そもそものことを言えば、宇宙が本当に存在するかどうかすら、人間は、確証を持って認識することはできません。人間は無知です。ソクラテスの昔から、別段、何ひとつ前には進んでいません。科学的真理みたいなものを探求するゲームが、ガリレオ、ハーヴェイ、ニュートン以降、一気にブレイクしたという風なことだと思います。

 広辞苑に技術は「科学を実地に応用して自然の事物を改変・加工し、人間生活に役立てるわざ」と説明してあるそうです。「人間生活に役立てるわざ」の箇所は問題なしです。前半の「科学を実地に応用して」というフレーズに、仲野さんは異論を唱えています。羅針盤・火薬・紙・印刷術は、中国の四大発明ですが、これらは、科学的な法則ではなく、経験に基づいて作られたものなのだそうです。科学的理論の解明というゲームが始まる前から、技術は存在したということです。それはそうです。人間に役立つものは必要です。科学的理解の解明というゲームは、それを好む近代ヨーロッパの人たちが歴史の表舞台に登場し、理論を解明することは、技術を作り出すことに、大いに役立つと発見し、今にいたっているわけです。技術を人間に役立てるというよりは、ビジネスを動かすために、次々に技術が発明されたんだろうと、想像できます。

 旧ソ連とアメリカは、恐怖心に煽られて、核兵器を作りまくったわけですが、間違いなく、巨大なビジネスです。核兵器を廃絶すれば、この巨大なビジネスが回らなくなります。いきなり核兵器ビジネスが消滅するというパラダイムシフトは、アメリカでもロシアでも中国でも(核兵器ビジネスの中の人は)あり得ないと考える筈です。全人類が滅んでしまったとしても、パラダイムシフトができない、人間がそこまで愚かな存在であるのかどうか、それは今も試されていますし、今後も(少なくとも今の中高生が生きている間は)試され続けて行くと思います。

 物理学者の山本義隆さんは、何のために勉強するのですかと尋ねられて「自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を言う。ただそのためだけに、勉強するのです」と答えたそうです。仲野さんは、これは科学という言葉にも、ぴったりとあてはまると仰っています。数式も言葉の中に含めています。科学は、言葉ですべてが説明できる世界だと考えると、判り易いです。私たちは、日々、言葉では説明できない、有象無象に取り囲まれています。「うーん、あいつ絶対ムリ」と思ってしまう、パワハラ上司がいて、そのパワハラの全貌を、言葉で説明し尽くすことはできません。パワハラの全貌は、パワハラを受けている被害者の体験の中でのみ存在します。

 言葉ですべて説明できるので、科学はすべての人に開かれているopenな教養だと言えます。音楽や美術はすべての人にopenだとはとても言えません。漱石は、音楽にはまったく無関心でした。漱石の文章には、音楽的にとこは少しもありません。リズムにのって一気呵成に読み通せる文章とは、お世辞にも言えません。私は、源氏物語を読んでいますが、源氏物語は、一気呵成に読み通せる文章です。例えば、碧巌録などは、絶対に一気呵成には読み通せません(そもそも意味すらビギナーには解りません)。それは、結局、周囲に音楽があふれているか、否かの違いです。音楽は、解らない人には解りません。万人に開かれたopenなものじゃないんです。禅の世界は、音楽は聞こえて来なくて、言葉もほぼ不要な寡黙の世界です。何もかも削り尽くして、極限の世界に辿り着く、これが禅です。

 科学は、誰にでもopenに開かれていて、原則、国境も存在してません。が、科学のリンガフランカ(国際語)は、英語です。もし、将来科学者になりたいと思っているのなら、何をおいても、英語を勉強しておくべきですと、仲野さんはきっぱりと仰っています。

 30代後半で、研究職に就いている私の教え子のTくんが
「英語の論文が読めないので、すべて翻訳で読んでいます」と、手紙に書いて来ました。Tくんが、60代でしたら
「そっか、まあ日本人だし、日本語ができればいいよ」と、この発言をsakuっとスルーしますが、この後、30年くらいは、仕事で論文を読むわけでしょうし、その30年間、ずっと翻訳の論文では、何か時間とエネルギーが、もったいないと判断して
「頑張って、英語の論文を読む努力をしてみたら」とアドバイスしました。教師は、状況に応じて、必要なことを、言わなくてはいけません。ディズニーの歌は、すべて日本語の吹き替えがある筈ですが、ディズニーの歌を、日本語の吹き替えで聞くとかって、考えただけでも、気持ちが悪いです。英語が解らなくても、英語のオリジナルの歌詞で聞くべきです。論文の場合、解っても解らなくてもオリジナルの方がいいとは、さすがに言えませんが、オリジナルの英文を読むという覚悟をきちんと決めて、ある程度、量をこなせば、英文で読めるようになります。2年間くらい、必死に努力すれば、あとの28年間は楽に読めます。

 仲野さんは、ワトソンが唱えた科学者として成功するための五個条を紹介しています。第一条は、「バカは避けよう」です。中高生が想定読者で、バカとかって、差別用語を使って、大丈夫なんだろうかと、懸念してしまいます。が、そのあと、すぐにアホと言い換えています。バカはNGですが、アホは許されるみたいなとこは、まああります。
「残念ながら賢さは伝染しませんが、アホはうつることがあります。それに、人間はともすれば、安きに流れてしまいます。完全に避けきることなどは、不可能ですが、できるだけアホな人を避けないと、自分がダメになっていく可能性があるのです」と仰っています。うーん、これは真実です(もっとも賢さも伝染します)。私も、結構、バカでアホです。だから、人に避けられてるってとこもあります。が、まあ(決して負け惜しみとかではなく)避けてくれた方が、正直、こっちも楽です。

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