美#165「仙厓とルオーを、即座にコラボさせる要領の良さがあれば、世の中で成功すると思いますが、その要領の良さは、仙厓ともルオーとも、無関係だと言えます」
「アートノート165」
出光美術館は、出光佐三が、1966年、帝劇ビルの九階に創設した。open 当時は、第一室は中国の美術品、第二室は仙厓、第三室は古唐津を常設展示していた。
仙厓や古唐津を鑑賞する、その同じ姿勢、視線で、ルオーの作品の評価も、もしかしたら、可能だったのかもしれないが、ルオーの連作「受難」や版画集「ミゼレーレ」も収蔵している。
仙厓も古唐津も純Japanの100パーセント国産の文化。ルオーは、百パーセント外国のカトリックの文化。どこで、どう折り合いをつけて、出光佐三は、仙厓・古唐津と、ルオーの作品をコラボさせ、enjoyできたんだろうと、素朴な疑問は感じる。「仙厓」「古唐津」「ルオー」の三つを使って、三題噺を即座に拵えろと言われても、勿論、できない。私の場合、仙厓と古唐津だって、別々に取り扱って、認識、理解しなければ、前に進めない。 ルオーの先生はモロー。モローは、マティス、マルケ、ルオーといった人口に膾炙している著名な画家を三人も育てている。モローの画風の影響は、三人ともほとんど受けてない。モローの人間的カリスマが触媒として働いて、三人の画風の違うアーティストが誕生したと考えられる。
ルオーの父親は、指物の仕事をしていた職人だった。ルオーも、14歳から絵ガラスの徒弟奉公をしながら、夜は装飾美術学校に通っていた。ルオーは、ワーキング階級出身のアーティスト。下の階層の人間は、上の階層(つまりブルジョワ階級)の欺瞞、偽善が、皮膚感覚で理解できる。
ルオーは、若い頃、ブルジョワの悪相を結構、描いている。社会の不正、不公平に憤るような絵を描きたい気持ちは、判らないでもない。が、ルサンチマンを吐き出すような絵を描いても、すぐれた真のアートにはならない。
パンク音楽の場合、ルサンチマンを吐き出すような歌詞を書いたとしても、ハーモニー、メロディ、リズム等々の調和、つまり音楽の物理的なお約束ごとが、歌詞がどんなに後ろ向きでネガティブであっても、音楽を崇高なものに昇華させてくれる。
絵画に関しては、そう言った、物理的なお約束ごとは、存在してない。ルネサンス以来、19世紀の終わりまで、地道に積み上げて来たリアリズムを、現代絵画は、ほぼ完膚無きまでに葬り去ってしまった。
10年ほど前、出光佐三の生涯を描いた映画を見た。出光佐三は、福岡出身。神戸高商を出て、26歳の時、門司で出光商会を創立し、沖合・遠洋漁業向けの軽油の販売に着手する。その後、満鉄に機械油を納入し、日本の中国進出に歩調を合わせて、中国大陸に販路を拡大する。
結果として、日本の中国侵略のサポートしたと判断できる。映画では、美術館創設の話題などには、一切、触れてなかったが、仙厓の美が判る経営者は、戦前の中国侵略に関して、道義的な責任は、感じていたと推定できる。
美術館を創設し、良いものをdisplayし、少しでも社会のために、役に立つことをしたいと、出光佐三が考えるのは、ごく自然な発想だと言える。出光佐三のheartに刺さる洋画が、ルオーだった。当然だが、ルサンチマン系の若い頃の作品は、さして収蔵してないと判断できる。
ルオーは、画商のヴォラールが逝去した後、ヴォラールの遺産相続人と、法廷で争って勝訴し、全部で315枚の未完成作品を破棄している。この中に、若き頃に描いた、ルサンチマン系の絵画も含まれていると想像できる。
昭和期の美術評論家の福島繁太郎氏は、フランスに定住し、フランスのアーティストの作品を収集して、福島コレクションを作り上げた。戦争前に帰国したが、この時、ルオーの作品を、相当数、持ち帰って来ている。福島コレクションのルオーは、現在、各美術館や個人の所に分散してしまっている。福島コレクションのルオーを、どこかの美術館がまとめて収蔵し、displayすれば、西洋美術館のロダンやモネに匹敵するくらいの、ルオーコレクションが、できていたのにと、思ったもする。
ブリジストン美術館(現アーチゾン美術館)にルオーのすぐれた絵が二枚ある。一枚は、貧しそうな父親と息子二人が郊外の路上で佇んでいる絵。タイトルは「Le Christ dans la banlieur」。banlieurは郊外。日本語にすると、郊外のキリスト。貧しい父親風の人物がキリストであることは、タイトルからして明らか。
もう一枚はPierrot。つまりピエロ。解説には「(顔の表情に)ある種の悲劇的な感情が、多少ともこもっている。それは、顔だけでなく、暗く塗りつぶされたバックにも負う」と書いてある。私は、ブリジストンで、結構、時間をかけて、この絵を丁寧に見た。暗く塗りつぶした背景には、奥行きがあって、背後には宇宙が大きく広がっているように思えた。 Pierrot(ピエロ)というのがタイトルだが、mere(母)、あるいはsoeur(姉)というタイトルでも構わないような気がした。さらに言うと、マリアでも問題ない。カトリックの教会は、神は崇拝の対象、マリアは崇敬の対象だと、詭弁的な言葉の使い方をして、マリアの存在を、曖昧にして来たが、現代は多分、神だと認めていると思う(確証はない)。
ブリジストンのピエロは、一見ピエロっぽいが、実はマリアだと、私は若い頃から、確信していた。私は、自分の母親を愛してなかったが(この件に関しては、どうしても自分を誤魔化せない。愛してなかったとか、そんなことでもなかったかもしれないなどと、曖昧にしたら、自分の負けだと確信している)。
キリスト教のマリアは、どことなく信じられる。long long time ago、ミラノで「ロンダニーニのピエタ」見た時、間違いなく、これはマリアだと直観した。この直観が確信になって、今に至っている。キリスト教に関しては、今だに判らないことだらけだし、私はずっとプロテスタントの教会とお付き合いして来たが、マリアは、神だと信じられる。まあ、これは、歳を取ったので、矛盾を平気で、いとも容易く、抱え込めるようになったからだという気もする。
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