創#701「文章を書くのは、文章を書くことによって、新たな発見をしたいからです。それは、文章を書く(もちろんペンを使った手書きです)ことによってしか、発見できません。当然ですが、AIに頼る筋合いのものではありません」
「降誕祭の夜のカンパリソーダー446」
「自分はワープロで、文章は操作してない。文章を更正する場合、いったん紙に印刷してその印刷した紙に朱を入れて、更正している。明朝体の活字の文章は、最後の結果として、プリントアウトされる。明朝体という活字に振り回されているわけではない」と、私は関谷くんに説明した。
「圭一さんから、二回手紙を貰いましたが、つけ入る隙がないほど、正直であっけらかんとしていて、確かに仮面は被ってないような気がします。普通、文章を書くと、もっと気取ったり、自分をより良く見せたくなったりするんじゃないですか?」と、関谷くんは訊ねた。
「小学生の頃、読書感想文を書いていた。通っていた文庫のマスターが、感想文を書いた方が、本の内容がより良く理解できると勧められたからだ。その感想文をマスターに見せたわけじゃない。自分が書いたものは、基本、読み返さないが、書いている内に気づくことがある。それは、一応、手帳にメモしておく。本を読んで気づくことは、もちろん、いろいろあるが、文章を書くと、違う角度から、新しい発見をする。その気づきは、やっぱり貴重だし有益だ。文章で、嘘を書いて盛ったりしていたら、そういう真実の気づきとは、無関係にエネルギーと時間、紙とインクを無駄に使ってしまうことになる。アリストテレスがいうところの、テオリアというか、観想的に見て、新たなことを発見したいという気持ちで、文章を書いている。それは、手書きじゃないと、発見できない。それから、純粋なラブレターのようなものは、かつて書いたことがない。先輩が書いた純粋なラブレターを読んだことがある。恋愛のマジックというのは、冷静な人間をcrazyな状態に持って行ってしまう。そうなってしまえば、相手のheartを掴むために、美辞麗句を並べ、歯の浮くようなセリフのオンパレードになってしまう。それは、まあゲームのようなものだ。が、恋愛は相手との、その後の展開で、人生そのものの大枠が決まってしまう。賭博で、大損をしたら、当然、借金を抱えることになる。が、破産宣告をしてしまえば、まあ、一種のチャラ状態になるし、借金が、人生の軌道を、根本的にchangeさせるってこともない。が、恋愛は、その後、結婚に辿り着くと、人生の大枠を決定してしまう。家庭生活の幸せと不幸せについて、漱石は新聞小説のスタイルで、次々と書いた。読者は、結婚生活というものは、徹底的に不幸でもないが、別段、そう幸せでもないという当たり前のことを、たっぷり学習して、安心したんじゃないかな。関谷くんは、国文科だから、漱石はまあ一般教養として、読んでおいてもいいかもしれない。そもそも、オレたちは、明日、虞美人草の宗近くんと甲野さんが辿ったコースで、比叡山に登る」と、私は関谷くんに伝えた。
「登ろうと思ってたけど、昼過ぎまでうかうか寝てしまって、なおかつ、二日酔いで、山登りどころじゃないってことも、充分、考えられます。その場合は、登ったという『てい』で、いいんじゃないですか?」と、関谷くんが、お茶を濁すようなことを言った。
「関谷くんは、将来的に故郷には帰らないといった風なことを、東京に来た時に言ってた。関谷くんの人生に関して、オレがどうこういう義務もないし、別段、反論もしなかった。が、最終的に、どうにもならなくなったら、故郷に帰れば、食える筈だ」と、私が言うと「確かに家に帰れば食えます」と、関谷くんは、正直に返事をした。
「オレには、そんな保証はない。どうにもならなくなった時、誰かが助けてくれるとも、考えてない。自分のことは自分で何もかも、始末をつけなきゃいけない。二日酔いでぐだって、丸一日、無駄に過ごしましたといった風な贅沢な時間の使い方は、許されてない。そんな生活をしていると、40代には、成人病になって、病院に放り込まれる。が、オレはスタンドアローンな人間だ。病院に放り込まれて、誰かが面倒を見てくれるといった幸せな境遇の人間じゃない。大阪とか京都とか、まあ神戸もだが、やっぱりテンポはゆったりで、故郷のテンポとさほど変わらない。東京で、故郷のテンポで暮らしていたら、完全に、置いてけぼりにされる。自主、独立、自律のスピリッツが嫌でも求められている。オレのように最終的に帰る所のない人間には、大阪や京都より東京の方が、心地良いし、暮らし易い。虞美人草の甲野さんは、哲学者だ。哲学者は、比叡山に登ったという『てい』で、ものごとを見極めることができる。そもそも、哲学者は、京都まで出向く必要もない。出向く必要もないのに、京都まで来て、比叡山に登っている。必要なこと、必要じゃないことの二つがあれば、当然、必要なことをしなきゃいけない。が、時間と余力があれば、必要じゃないことも、手がけた方がいい。それが、この世界に生きているということだ。下宿で、ずっと寝ていて、登った『てい』で、過ごすとかって、足腰の立たなくなった老人の言う台詞だ。が、まあオレに言わせれば、老人になっても、比叡山くらいには登れないと、スタンドアローンじゃ、到底、生きていけない」と、私は諭すように関谷くんに伝えた。
「東京のテンポの速さは、判ります。そのテンポで、健康を維持することは、結構、大変なんじゃないですか」と、関谷くんは訊ねた。
「速いと言っても、二倍速というわけでもない。オレの感覚だと、1.7倍速くらいだ。二倍速でも、そのテンポに慣れたら、何なくこなして行ける。何倍速までが可能なのかは判らないが、人間は能力のごく一部しか使ってない。二倍速で、不健康になるなんてことは、絶対にない。速いテンポで、ものごとを処理しているからこそ、諸機能が錆びつかず、上手く回っているといったとこもある。テンポが遅すぎると、エンジンが回りきらないように、パーツがどんどん劣化して行くことだって、考えられる。自分の田舎には、パーツが劣化した、おっちゃんがいっぱいいる。頭も身体も、ある程度、速いテンポで、動かしてないと、自分に備わっている機能が、劣化して行く」と、私は関谷くんに伝えた。
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