自#612「自然の景色も、何かの建築物も、何らかの意味で人事が絡んでこそ、生き生きとスピリッツあふれる物に、見えて来るんじゃないかと想像しています」

      「たかやん自由ノート612」(ゴシック式②)

 アートの中では、絵が一番好きです。絵なら何でも見ます。ですから、本当はマンガも、もっとどしどし読んで、しかるべきかもしれませんが、マンガは絵の情報量が多すぎます。巻頭カラーの何枚かくらいなら、見てみたい気もしますが、巻頭カラーの2、3ページを見るために、マンガ週刊誌を購入するのも不経済です。だったら、ゴシップ満載の週刊文春、週刊新潮を買ってしまいます。コロナ禍の一年目の昨年度は、週刊誌を読みまくって世間の有象無象の無駄な情報が、頭の中で、あふれかえっていました。今年は、西欧の古典なども読み、まあそれなりにバランス良く、晴耕雨読的な日々を過ごしていると思っています。畑を耕したり、土いじりをしているわけではありませんが、週4日、学校の教壇に立って教えていますし、スーパーに買い物に行ったりもしています。外に出て、何らかのjobに携わっていれば、それがまあ、晴耕です。
 絵の次に好きなのが、彫刻です。これは、若い頃、奈良で仏像を沢山見たことが、知的財産としてstockされて、彫刻なら分かると、思い込んでいるからなのかもしれません。絵の方が、好きですが、彫刻の方が分かります。絵は完全に抽象的なイマジネーションの世界を描くことが可能ですが、彫刻は、写実を離れると、彫刻ではない別のアートになってしまいます。六本木の新国立美術館で、アフリカの石の塊を使って、門や階段を拵えているアートを見たことがありますが、それはもう彫刻ではない、別種のオブジェです。
 興味関心の一番が絵で、二番目が彫刻。あと三番目はと問われたら、考えてしまいます。三、四はなくて、五番目が、多分、焼き物です。が、焼き物も基本、図柄を見ています。ギリシアのアンフォラのような壺とか、あくまでも絵を見るために、鑑賞するわけで、壺そのものを鑑賞したことは、一度もありません。壺の中に、オリーブオイルや料理用のワインなどが入っていて、日常生活で使っていれば、壺の用途や機能、無駄のない美しさなどに注目するのかもしれませんが、残念ながら、ウチの台所には、百均で買ったような、安物の生活用具しか備えてません。
 建築は、どうなんだと質問されたら「あっ、まあいいとは思うけど。正直、よく分からないし」と、返事をします。私は、ずっと部屋を借りて、これまでの人生、過ごして来ました。物心ついた時には、場末の四畳半の狭いアパートで、母と二人で暮らしていました。これが、私のルーツです。いつか成り上がって、豪邸を建ててやると言った、意識の高さは、爪の先ほども持ち合わせてなくて、生涯、自分のルーツを離れないような貧乏暮らしをして、take it easyに過ごして行きたいと、子供の頃から、漠然と思っていました。ですから、自分の家を建てるという欲望が、まったくなかったんです。これが、建築にたいして興味を抱いてないことの、ひとつの理由かもしれません。
 自分にとって理想の住まいを拵えて、そこでhappyに暮らすという発想をしたことがありません。病院が好きだとは、とても言えませんが、万一、病院暮らしを強いられたとしても、本と画集と音楽があれば、充分にhappyに暮らせます。刑務所の中だって、模範囚になればラジカセが貸与されます。人文系の本なら、刑務所の中でも、普通に読めます。刑務所の中で、語学をマスターしたという思想犯だって、結構、いたりします。病院だって、刑務所の中だって、自分の心のあり方次第で、幸せに過ごせます。30年ローンを組んで、借金をして、家を新築するという発想は、私の場合、あり得ませんでした。
 建築が、その時代の精神を表現する最大かつ最高のアートだということは、充分、理解しています。唐招提寺の外観をひと目見れば、一瞬にして、天平文化というものを理解できます。ギリシアでしたら、パルテノン神殿。エジプトはクフ王とカフラー王のピラミッド。インドは、シャージャハーンが建てたタージマハル廟。中国は万里の長城。ゴシックだと、パリのノートルダム大聖堂(もう焼け落ちましたが、まだ普通に人々の記憶の中に存在しています)。偉大な建築は、思考作用を必要とせず、生理的に即座に、その時代のスピリッツを、完膚無きまでに伝えてくれます。
 偉大な建築は、splendid、fantastic、wonderfulなどの一単語で、感想が尽きてしまいます。絵とか彫刻だと、いろいろ言葉が出て来ます。尾ひれもいっぱい付けられます。ピカソのゲルニカは、尾ひれが付けられないような大作なのかもしれませんが、まあ、あれだって、誰かが何かを言い出したら、意見はいっぱい出て来て、きっと、収拾がつかなくなってしまいます。
 ゴシックの大聖堂は、人類が造り出した、偉大なモニュメントのひとつです。モネは、その偉大なモニュメントを使って、光と色彩のマジックを見せてくれました。睡蓮やベネツィアの街並みを使って、光と色彩のマジックを展開するのと、ゴシックアートのそれとでは、やはり違います。太陽の光、色彩と言った物理的な現象が、人事(人間が拵えた建築物とか、手をかけて育てた池の睡蓮とか)と、真正面からぶつかった時、やはり火花を放つような個性が、立ち上がります。自然(物理と言ってもいいです)は、人事と絡まなきゃいけない、これが、源氏物語を読んで、肝に命じて知った人間社会の真理です。宇宙だって、人事が絡んでこそ、夢と価値を持ちます。ルーアン大聖堂という偉大な人事の塊の作品に、太陽の光が襲いかかって来て、色彩の一大シンフォニーを繰り広げる、それが、ルーアンの大聖堂シリーズのテーマです。この頃、モネは、52歳で、再婚して二度目の奥さんをもらっています。再婚をして、新たな人生をまたstartさせた、その若々しさが、ルーアンのシリーズに紛れ込んでないとは、言えません。ルーアン大聖堂は、早朝、朝、昼間、夕暮れと、代表作があります。どの絵の空も、浮世絵の下地に使いたいような、奥行きのあるゆたかな中間色です。字が、上手だったら、こういう色の西洋紙に、モンブランの万年筆にセピアのインクを入れて、恋文を書いてみたい、そんなことすら思わせてくれる、空のそれぞれの色です。
 モネは、ルーアンの大聖堂をアトリエで仕上げています。大聖堂のような、圧倒的な迫力を感じさせるモニュメントの前に、キャンバスを据えて、写実で描いたりするのは、精神衛生的に、きついんじゃないかと想像しています。モネたちが尊敬したミレーは、思い出して、記憶で描くと言ってました。対象を見ながら、外で写実で描けるものもあります。植物や昆虫は、写実で描けそうです。ピラミッドや大聖堂となると、一度、アトリエに持ち帰って、頭の中で、整理し再構成した方が、より本質に迫れるような気がします。
 今週の授業で、ゴシックの大聖堂をひとつ見せます。モネのルーアンの大聖堂でもいいかなと、安直な考えに傾いてしまいました。絵を見せる方が、実物の写真より気楽です(多分、私自身がより理解しているからです。それに、モネの大聖堂でしたら、パリに行けば、一挙に全部見られますし、日本に1、2点、回って来ることも考えられます)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?