自#232「上の二人のお兄ちゃんが公務員だから、3番目は、ゲームでも何でも好きなことをやらせますと云った、お母さんのこの発言は、バランス的には正しいかも・・・です」

  「たかやん自由ノート232」

スターダスト☆レビューのVo&Gの根本要さんのインタビュー記事をアエラで読みました。根本さんは、現在、63歳。摩天楼の図柄をプリントしたTシャツの上に、赤いダンガリー風のシャツを着て、フェンダー社のストラトを持って、歌っている写真が掲載されていますが、還暦を3つも過ぎた爺さんって感じは、まったくしません。髪もゆたかでぼさっとしたヘアスタイルで、やんちゃな兄ちゃんって雰囲気がします。音楽をやっている人たち独特の年齢不詳の若さを、感じてしまいます。

 根本さんが生まれたのは、埼玉県の行田市。昔、埼玉古墳に遠足に行った時、行田市を散策しました。まったくのド田舎ってわけでもなく、かと云って都会っぽさはカケラもなくて、ほどよく日本の自然を満喫しながら成長できそうな、牧歌的な町です。

 根本さんの父親は医者。母親は看護師。長兄さんは医者で、次兄さんは歯科医。男の子が3人いて、2人がちゃんとしていれば、一人くらいは、やさぐれた世界に迷い込んでも、親は文句を言わないような気がします。有名な佐藤ママのように、4人の子供が全員、東大の理Ⅲに進むとかって、正直、アブノーマルな異常じゃないかとすら、思ってしまいます。3人が理Ⅲなら、一人くらいは、学歴のない大道芸人とかでも、全然、構わないかなって気がします(あっ、でも佐藤ママの受験のアドバイスは的確ですし、磨き抜かれたauthenticな教育ママだと、リスペクトしています)。

 根本さんが小5の時、洋楽の好きなお兄ちゃん(長兄)と一緒に使いなさいと言って、母親が、エレキギターを一本、買ってくれます。看護師の母親が、エレキギターを自ら、買い与えるとかって、ちょっと不思議ですが、看護師見習いの時、ベンチャーズの「十番街の殺人」とか「ダイヤモンドヘッド」などを聞いて、励まされたみたいな過去が、もしかしたら、あったのかもしれません。

 長兄さんは、受験勉強に専念し、ギターどころではなくなったので、エレキギターは、根本さんが独占して使います。LPの回転数を落として(調節ツマミのある回転数を変えられるプレーヤーだったわけです)エリッククラプトンのクロスロードを、盤が擦り切れるくらい、弾きまくったそうです。「サンシャインラブ」とか「ストレンジブルー」と云った人口に膾炙したポップな曲は、さて置いて、クロスロードをコピーした、根本さんの気持ちは、判らなくもないです。クロスロードは、いくらクラプトンが、アレンジしても、ロバートジョンソンの亡霊が、立ち上がって来るようなブルース曲です。根本さんは、中1くらいだと思います。中1で、ブルースに取り憑かれてしまうと、一生、ブルースの呪縛からは逃れられないような気がします。

 中1の時、お兄さんに連れて行ってもらって、ウッドストックの映画を観たそうです。私は、高1の時、高知の映画館で観ました。強烈な映画でした。ジョーコッカーがビートルズの「With a little help from my friends」を歌うシーンとか、今でも鮮明に覚えています。ウッドストックは、60'sのアメリカ文化の集大成とも言うべき映画です。ウッドストックから、何かが始まるのではなく、ウッドストックで、何もかもが終わったと云う印象を、当時、高1だった私は抱きました。ロックが輝かしかった時代が、ウッドストックで終わったことは間違いないと、その後、より客観的に理解しました。70's以降、ロックはビジネスに変貌しました。「鬼滅の刀」が、現在、ビジネスに変貌して、鬼が本来持つ、おどろおどろしい恐怖感が薄れてしまっていますが(おどろおどろしさがあれば、缶コーヒーで、鬼滅の刃を、28種類、全部、飲み干すとかって、とてもできない筈です)まあ、ロックのスピリッツも、70'sに入ると、急速に薄れてしまいます。イーグルスが「ホテルカリフォルニア」で歌った通り、1969年からこっち、スピリッツは、もう置いてないみたいな状態になりました。

 が、まあこれは世界のトレンドの話です。根本さんにとっては、ウッドストックがスタート地点であって、そこから、ロックな人生を積み上げて行くのは、個人の自由の問題です。根本さんは、高校時代から、音楽活動にのめり込みます。活動の拠点は、行田市のすぐ隣の熊谷市の八木橋百貨店の地下にあった、でくいんどうと云うライブハウス。百貨店の地下にライブハウスがあるとかって、めっちゃお洒落です。私の田舎にも、高知大丸と云う百貨店があります(今は、郊外にあるイオンに押されていますが)。大丸の地下にライブハウスがあれば、有名アーティスト(バンド)が出現していたような気がします。

 根本さんは、高校を卒業して、大学にも進学します。進学したのは、日大芸術学部放送学科。その頃も、今も、日芸に取り敢えず進学して、プロを目指すと云うのも、ありだなと云う気がします。で、まあ当然のように根本さんは、日芸を中退します。

 22歳の時、ヤマハのポップコン(ポピュラーコンテスト)で優秀曲賞を受賞します。これが、東京進出のきっかけになったと推測できます。2年後に、「シュガーはお年頃」と云う曲で、デビューします。根本さんが、24歳の時です。でくいんどうでの下積み生活は、9年くらいってことになります。でくいんどうには、ロックだけでなく、ラテン系やブルースなどに深い造詣を持つ先輩たちが沢山いて、まだ若かった根本さんは、バライティゆたかな音楽的な素養を、下積み時代に、しっかりと身につけた筈です。

 埼玉県の鳩山と云う田舎町に、昭和歌謡のバンドをやっているMくんと云う教え子が住んでいます。3年くらい前に、横浜のダンスホールで開催されたMくんの結婚式に出席しました。その時、鳩山のミュージシャンの演奏を聞きました。鳩山なんて、Mくんが引っ越すまで、聞いたこともない町だったんですが、全国の津々浦々に音楽の好きな、ロックに熱い人が沢山いると云うことを、改めて理解しました。

 根本さんは、毎年、全国ツァーを実施して、全国のファンにライブ演奏を聞かせています。音楽が好きな人は、日本全国の各地にいるわけですから、その人たちに合いに行って、演奏をすると云う音楽生活を、根本さんは、40年間、一度も休むことなく、続けて来たんです。ライブは、1年に100回くらい。一日目は移動、二日目に準備、で、三日目の本番です。年間100回くらいが、限度だろうと想像できます。

 ノマドと云う言葉が、普通に使われるようになりました。ノマドは、本来、遊牧民と云う意味ですが、リアルタイムの日本ですと、遊動仕事人と云う風に概念規定してもいいと思います。西行も宗祇も芭蕉もノマドだったんです。遊行の僧たちもノマド。ノマドの伝統は、日本文化の根底に根ざしています。体力と、気力が許す限り、ツァー生活を続ける。それが、幸せか、どうかはさておいて、ツァーをやることが、自分のミッションだと、根本さんは、多分、お考えになっています。

 8月の日比谷野音でのライブは、コール&ノーレスポンスで実施したそうです。相手の声が聞こえなくても、目の前に観客がいれば、それはライブです。こういうご時世ですから、当分は、コール&ノーレスポンスでも、やむえないと思います。 

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