自#466「オデュッセイの妻のペネロペは貞淑な妻ってことになっていますが、貞淑な妻と言ったステレオタイプには、とても収まらない、食えない女性です。女性の存在そのものが、そもそもdiversityに富んでいます。単純な男は、それこそ掃いて捨てるほど、沢山いますが、単純な女性と言うのは、存在しません」

         「たかやん自由ノート466」

 期末試験の採点を終えて、10日間かけて、オデュッセイア(上下)とイリアス(上中下)の5冊を読みました。二日に一冊のペースで、別段、速くもなく、遅くもなく、わくわくどきどき興奮することもなく、アンプやスピーカーの取り扱い説明書を読むかの如き淡々としたスタイルで読了しました。普通に面白ろかったです。が、人生観が変わるほど、とんでもなく強烈な読後感だったわけでは、勿論、ありません。還暦を超えた年寄りには、人生観が激変するような、事件やイベントは、もう起こりません。永遠の中二病であり続けたいという願いはありますが(真のアーテイストというのは、基本、永遠の中二病です)、私は、アーティストとかではなく、教職という実務的な仕事を長年して来ましたし(教師にはアーティスティックな才能は、まったく不要です。音楽や美術は好きだけど、アーティストには成れない方でも、努力さえすれば、教師としていい仕事ができます)子供の時は、社会の底辺あたりで暮らして、役所にいた頃には、社会の裏側の仕組みもある程度、学びました。人生の有象無象を、どっさり身につけてしまっています。文学を読んで、まっすぐストレートに感動できるような、pureで純心な、中学2年生のようなheartは、もう持ち合わせていません。老後は、やはり人並みに、蕎麦打ちとか、庭いじり、地域の子供たちのための交通安全のボランティアなどに従事した方が、より健康的なのかもしれません。が、小さい頃から、本と音楽に没頭して、日々、過ごして来たわけですから、その身につけた習性的徳に素直に従って、自分らしく老後を過ごしたいと思っています。
 高1の時に、イリアスを読みました。今回、読んだのと同じ、呉茂一さんが訳した、岩波文庫です。いわゆる岩波文庫の赤本です。岩波文庫の赤本を読んでいるということが、その頃の高校生のステイタスでした。当時、私は平凡パンチも週刊プレイボーイも、週刊新潮も読んでいました。それだと、まあ普通です。普通じゃないとこを、見せたいという欲とか見栄とかは、高校生ですから、当然、あるわけです。
 高1でイリアスを読んでも、どこが面白いのか判りません。そもそも、古代ギリシア語で書かれた長短短格の六脚詩を、翻訳で読むことが、無理です。万葉集を英語の翻訳で読んでも、五七調や七五調のリズムは感じないわけですから、たいして面白くはないと推測できます。まあ、それと同じです。イリアスやオデュッセイアは、日本の古代の唐楽とか高麗楽とかと同じで、多くの人が集っている場でshareされる祝祭歌のようなものなんです。ミケーネ時代や、古代ギリシア(それもアルカイック期以前)の文化や生活が、ある程度、理解できてないと、イリアスやオデュッセイアの意図、意義は、理解できません。
 神に犠牲を捧げるsceneが、何度も繰り返し出て来ます。このsceneを、そこに集っている人が、shareし、神に感謝することが、イリアスやオデュッセイアを語る、最大の目的です。現実問題として、たとえば、百頭の牛の首を刎ねて、百頭そっくり神に捧げると言ったことは、財政経済的にも、不可能です。牛も山羊も羊も馬も、すべて大切な財産です。実際は、猪を数頭、捧げるくらいが、実施可能な犠牲のイベントだったと思われます。が、吟遊詩人が、イリアスやオデュッセイアを朗読すれば、過不足なく、犠牲を施したという「てい」で、人々も神々も満足できると云った風なことだったと、私は想像しています。
 イリアス、オデュッセイアあるいは、三大悲劇詩人のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスと云った人たちの古典作品は、聖書と同じように、何書の何章の何節という風に、書いてあるフレーズが、すべて即座に特定できるようになっています。つまり、古典作品のどの部分を引用してあるのかが、瞬時に明示できるわけです。プルタークの英雄伝を読んでいると、イリアスやオデュッセイアの引用が、次々に出て来ます。古典作品が、作り上げ、積み上げた財産を、きちんと後世の人が、利用できるように、テキストを確定して、整理されているんです。これは一種の文献学です。イリアス、オデュッセイアに関して、ベーシックな注釈を施し、テキストは完成させたのは、どうやらプトレマイオス朝時代のアレキサンドリアです。巨大な図書館があり、当時の超一流の古典学者たちが集まって、文献を整理したわけです。その頃の日本は、縄文時代がようやく終わって、弥生時代が、始まった頃です。ヘレニズム時代の文化の偉大さを、改めて知った思いがしました。
 イリアスとオデュッセイアを比較すると、話のネタとして、たとえば授業で語れるのはそれは、断然、オデュッセイアの方です。生徒が知っているペネロペというのは、ちっちゃな青いクマみたいなキャラクターですが、オデュッセイアに登場する、オリジナルのペネロペは、夫の帰りをひたすら耐え忍んで待つと云った、ステレオタイプの貞淑な女性では決してなく(どの解説書を見ても、貞淑な妻だと書いてありますが、女性はそもそも、そんな理念化した、simpleな存在ではありません)なかなかどうして、食えない女です。食えない女と云う現象は、リアルタイムのJKは、多分、知っています。食えない女というフレーズとコンセプトを教えてあげたら、「あっ、そうか」と、これまで漠然と知っていた知識が、きちんと形になります。「ペネロペは、結構、食えない女だから」と、これを判らせるだけでも、オデュッセイアを語る意義はあると思います。ペネロペに限らず、カリュプソもキルケもスキュルラも(まあこの方々は魔女ですが)食えない魔女です。ナウシカだけが、クォヴァディスのリギアのような、perfectな女性だと思ってしまいます。が、これはやっぱり男たちの勘違いです。ナウシカにだって、絶対に裏はあります。
「一見、裏がないように見えるナウシカだけど、やっぱり、内面に入ると、どろどろじゃないかな。みんなで、そのあたりをディベートしてみよう。野球部の君から意見を言ってみて」みたいな授業展開をすると、「すべての女には裏がある」という偏った考え方で、授業展開をしているとクレームが、届いたりするのかもしれません。ここはリスクを避けて、あれだけどっさりヤバい魔女が出て来るわけだから、ナウシカ一人だけは、pureな女性だという「てい」にしておいても、構わないかなとも思います。これはまあ、臨機応変ってやつです。
 私は、毎日、源氏物語を読んでいます。源氏物語と、外国の古典を比較すると、外国の古典は残虐でどろどろの文化が、そこら中に溢れています。まあ、そこが、外国の古典の面白さだとも言えます。

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