自#315「芭蕉と蕪村を較べてみると、蕪村は明るくて、近代に直結していますが、芭蕉は源氏物語のモノのあはれの正統な後継者です。どっちが好きなのかは、人それぞれの好みだと思います」

         「たかやん自由ノート315」

 小児科医の細谷亮太さんのインタビュー記事を読みました。細谷さんが生まれたのは、山形県の小さな田舎町です。父親も祖父もお医者さんです。病院のすぐ傍に住居を構えていました。家の庭に大きな桜桃の木があります。春は、近くの最上川の土手で、よもぎを摘んで、草団子をこしらえ、夏は裏の畑で、大葉、みょうが、茄子、胡瓜、ししとうなどを取って来て、切り刻んでご飯に混ぜ、それに鰹節や醤油をかけて食べたりします。リッチな医師のファミリーって感じではなく、普通の農家のような質素な生活です。
「自分の家は開業医だったけど、決して裕福ではなかった」と、細谷さんは仰っています。医師というのは、誠実かつ真面目、丁寧かつ親切に患者をケアしていたら、多分、そんなには、儲からない職業なんです。裕福ではないですが、貧乏ってわけでもありません。小学生の頃、たとえば野口英世のような偉人の伝記を読むと、小さい時から過酷な環境に置かれている人が多く
「ひどく貧乏な家に生まれないと、人の役に立つ人間にはなれないの?」と、父親に質問したこともあるそうです。細谷さんの父親は、どんなに雪深い日でも、患者に呼ばれたら夜中まで往診に出て、船が出ない時は、自分で船を操って最上川を渡って、診察に行ったそうです。医師として、真摯でひたむきな父親の背中を見て、医学部に進学します。

 細谷さんが東北大学の医学部に進学したのは、1966年。在学していた時期は、学生運動の最盛期です。が、運動には一切関わらない、ノンポリとして過ごしたようです。大学ではスキー部に所属します。スキー部の顧問が外科の教授だったので、外科に来ないかと、誘われたそうです。が、外科は酒飲みが多く、飲めなかった細谷さんは怖気づきます。それと、小学生の頃、担任の先生に、「根気強さが足りない」と言われたことが、トラウマになっていて、手術中に、手術が途中で嫌になったら大変なことになると、それも心配して、結局、卒業間近になって、小児科医を選びます。「年上の人の気持ちは分からなくても、自分が経験して来た子どものことなら、分かるかもしれないと思った」と、細谷さんは述懐しています。

 細谷さんは、アメリカ流の最先端の小児医療が実践されていた、聖路加国際病院の小児科に、勤めるようになります。一年目に神経芽腫(小児がん)を患っていた五歳の彩ちゃんが危篤になり、心肺蘇生を施したんですが、心臓が止まってしまって、指が震えて、涙が止まらなくなったそうです。その頃の小児がんは、負け戦と決まっていたので、次々に負け戦を重ねて行ったんだと思います。カトリック系の聖路加国際病院には、病院内に礼拝堂もあります。専任の神父さんもいます。幼い子の死に際して、細谷さんが泣くので、神父のチャプレンさんが
「細谷先生は、よく泣くね。でも、泣いたその日に焼き肉を食べて、また明日に備えることができたら、それも悪いことじゃない」と、励まして(?)くれたそうです。小さい頃、野菜のまぜご飯に醤油と鰹節をかけて食べていた細谷さんが、ステーキやカルビで、power upするかどうかは、判りません。この発言は、いかにもインドヨーロッパ語族っぽいと思いました。キリスト教には、精進料理とか、断食と云った文化は存在してません。仏教とは、根本的に仕組みが違います。キリスト教は、神と人間中心の宗教です。牛も豚も羊も人間に食べられるために存在しています。

 聖路加国際病院の指導医に勧められて、革新的ながんの治療法を、次々に打ち立てていたテキサス大学のMDアンダーソンがんセンター小児科に、3年間、研修留学します。日系のワタルストー博士に師事し、この病院で、小児がんは治る病気だと確信したそうです(現在は8割が完治するそうです)。研修を終えて帰国する時、ストー博士から
「子供は一人の人間として扱わなければいけない。君の任務は、病気の子どもに、きちんと病名と病態を伝えることだ」と、重たい宿題を与えられます。細谷さんが、聖路加国際病院に復職したのは1980年。その当時、がんを子供に告知することは、日本では、絶対に考えられないことでした。復職して6年後に、家族の了承を得て、はじめて10歳の白血病の女の子に告知します。
「嘘をつかないこと。子どもは、その年齢なりに、病気を受け止めることができる」と、細谷さんは語っています。私は、告知反対派です。子供であろうと、大人であろうと、告知する必要は、まったくないと考えています。が、diversity、多様性の時代です。告知をする先生がいてもいいし、それを、最終的に冷静に受け止められる家族や子どももいると思います。

 細谷先生は、病院より在宅の方が、安楽に死ねると仰っています。はじめて在宅で看取ったのは、末期の肺がんだった13歳のサトシくん。サトシくんが亡くなる前、父親が
「息子の息が止まったら、どうすればいいですか?」と、聞かれたそうです。細谷さんは、「息が止まったら、何もしなくてもいいんです。でも、どうしても何かしてあげたくなったら、息を吹き込んであげて下さい」と返事をします。ご両親は、勇敢に息子さんを看取ったそうです。この後、細谷さんは、在宅での終末医療の確立に心血を注ぐようになります。同時に、告知された子供たちが、自然の中で、語らいの場を持てるように、スマートムンストンキャンプを始め、医師ケア付きのキャンプ場「そらぷちキッズキャンプ」を北海道に開設します。

 55歳の時、亡くなった子どもたちの名簿をリュックに入れて、完全歩きで、四国八十八ヶ所を巡り、10年かけて結願したそうです。空海さんと、聖ルカとのコラボがあっても、全然、構わないし、札所の傍で子供時代を過ごした私には、ごく自然な流れだと思えます。

 細谷さんの趣味は俳句です。芭蕉がおくのほそ道で、山形路を歩いたので、山形では、生活に俳句が根付いているそうです。枯れた趣味なんかではなく、俳句にこだわることが、強烈に現世にこだわることだと、細谷さんは仰っています。確かにそうです。芭蕉は、死を覚悟して、おくのほそ道の旅に出かけました。
 「死にし患者の髪洗ひをり冬銀河」
細谷さんは、小児科医なので、「患者」は「こ」と読ませるのかもしれません。亡くなった患者の剖検後に、髪についた血を洗い流した時の気持ちを、表したものだそうです。 聖路加病院を定年退職し、現在は難病を抱える子どもと家族を支えるレスパイト施設「もみじの家」で、細谷さんは活動されています。200人の亡くなった子どもたちが、時々、自分の前にひょっこり現れて、いろんな気づきをくれるそうです。
「僕の中では、生と死が表裏一体をなしているようです。死を避けようとする風潮が強いけど、死があるから生が輝くし、人は生きたようにしか死ねないと思う」と、細谷さんは語っています。

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