自#510「初めて大原美術館に行った時、即座に判ったのは、セザンヌの静物です。セザンヌの絵は、モーツアルトの音楽と同じように、誰にでも判るアートだと想像しています」

         「たかやん自由ノート510」

 エルグレコの絵を見ました。グレコは、正直、良く判らないというのが、偽(いつわ)らざる本音です。グレコは、クレタ島で生まれ、20代半ば頃には、ビザンツ美術風の絵を描く画家として、クレタ島で活躍していたようです。27歳でヴェネツィアに行きます。当時、ヴェネツィアの画壇(大きくイタリア画壇と言ってもいいと思いますが)に君臨していたのはティツィアーノです。ティツィアーノに師事したかどうかは判りませんが(伝説ではティツィアーノの弟子ということになっています)影響は、当然、受けています。 その後、ローマに行きます。ローマでは、ファルネーゼ家の保護を受けています。ローマに5年ほど滞在して、スペインに行きます。最初、マドリードに住み、そのあとすぐにトレドに移住します。グレコは35、6歳で、スペインに行きました。ジョンレノンは「35歳以上の大人は信用するな」と、若い頃、言ってました。ジョンレノンの真意は判りませんが、35歳までに人間のパーソナリティは出来上がって、その後は、もう人間はさほど大きくは変わらないと、自分自身の人生を振り返ってみても、思います。が、グレコの場合、スペインに行ってから、その後、何もかも変わってしまっているような、印象を受けます。トレドに居を構え、その後、逝去するまで、トレドを離れませんでした。
 グレコは、還暦を迎える頃、「トレドの風景」という絵を描いています。トレドに住み始めて、四半世紀くらいが経過しています。トレドは、小さな街です。25年間も住めば、細部も含めて、トレドを知り尽くします。グレコの「トレドの風景」は、普通の絵ではないです。街のそこかしこに、ちみもうりょうが、跋扈しています。グレコとウマが合っていたちみもうりょうも、きっといたんです。生涯の伴侶に出逢ったり、ベストフレンドと邂逅したりするように、生涯、つきあって行けるメフィストフェレスのような、腐れ縁ともいうべきちみもうりょうと出逢ったりすることも、あるのかもしれません。私も、小1、2の頃は、ちみもうりょうが見えていました。小5で、伯母の家に行ってから、見えなくなりました。あのままちみもうりょうが見える生活を続けていれば、充分にヤバい、エキセントリックな人生だっただろうと想像できます。
 35、6歳から、人生が激変する、そういう実例を知っておくことは、役に立つと思います。普通、35、6歳を超えると、人間性の鋭角が取れて、丸くなり、次第次第に、ヤワにマイルドになって行くものですが、グレコの場合、逆です。歳を取れば取るほど、尖りまくり、スケールの大きい疾風怒濤に突っ込んで行ってしまっているような気がします。晩年になればなるほど、いい作品を完成させているといったsimpleなことは、グレコの場合は、言えません。どこかで、中和点を超えてしまったような気がします。その中和点あたりで描いたのが、あの著名な「オルガス伯爵の埋葬」だろうと、私は想像しています。
 山川の世界史の資料集のバロック美術のコーナーで、この絵が紹介されています(グレコは、正確に言うとバロックではなくマニエリズムです)。その隣には、ルーベンスの「マリードメディシスのマルセイユ上陸」の絵が並び、その隣はベラスケスの「ラス=メニーナス」です。ルーベンスとベラスケスは、どこがいいのか、絵の見どころはどこなのか、と言ったことは、即座に答えられます。ルーベンスやベラスケスは、誰もが認める(認めない人はいない筈です)Big アーティストです。エルグレコは、誰もが認めるかと言うと、ちょっと「?」だろうと想像できます。グレコは、1614年に逝去します。その後、ざっと300年くらいは、忘れられていました。20世紀に入って、エルグレコは、凄いという人が現れ、付和雷同的にエルグレコ熱が高まり、今に至っているわけです。
 エルグレコと言うのは、みんながいいと言ってるから、偉大な画家だと思われているんじゃないかと、猜疑的な姿勢の美術好きも、少なくはないと思います。
 堀辰雄さんが、大原美術館のグレコの「受胎告知図」を初めて見た時の感想を、エッセーにお書きになっています。たまたま、大原に立ち寄ったというわけでなく、グレコをどうしても見ておかなければいけないと決心して、奈良から5時間くらい列車に乗って、倉敷に出向いたんです。堀さんは
「画廊に入るなり、すぐエルグレコの絵に近づいて見ると、それは、思ったより小さなものだったが、いかにも凄い絵で、いっぺんではねつけられ、しかたなく、他のゴッホやロートレックなどを、ひととおり丁寧に見て歩いてから、一番、最後に再び、それに近づいたら、こんどはやっと少し平静な気分で、その絵を見てたが、なまやさしいものではない。『受胎告知図』という叙情的な画題に対して抱いている僕たちの観念が、ものの見事に粉砕せられてしまっている。天使は天使で、闇の中から、突然、ぎらぎらと光を発する異常なものとして描かれているし、その天使のほうを驚いて見上げている処女の顔も、何かただならぬように見える。すべてが、いかにも悲劇的な感じなのだ。こんどは、この一枚だけでも、よく見て行こうと思って、ずいぶん一所懸命になって見て来たつもりだが、どうしてもまだ、その絵が分かったようで分からない。そう、分からないというより、なんだかこんな絵が、こんなところに来ているのが、不思議な気がしてくるのだ。なんだか、それが、あるべき場所にいないような。それほど、何か異様なのだ」と、お書きになっています。
 長々と引用しましたが、私が大学に入る前、初めて大原美術館を訪れて、「受胎告知図」を見た時、まったく同じ感想を抱きました。堀さんのこのエッセーを、先に読んでいたので、事前に刷り込まれ、プチ洗脳されてしまっていたというとこも、まああるとは思います。10代の頃から、今に至るまで、エルグレコは謎です。グレコが判らないということは、スペインのキリスト教が判らないということです。キリスト教は、普遍的な宗教の筈ですが、私が造形美術で見る限り、スペインのキリスト教と、ローマのキリスト教、あるいはフィレンツェ、ナポリ、ヴェネツィアなど、それぞれ微妙に違うように感じます。これは、多神教徒が、勝手にアンテナを張って、一方的に拵えているイリュージョンのようなものなのかもしれません。判らないからこそ、今だにキリスト教にこだわっているし、造形美術も、見続けて行きたいと、多分、考えているんです。 

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