【詩集評】乙申『Alchemia』

いははや、参った。すごい芸術家がいたものである。この時代、既成の文壇や詩壇、商業ベースに乗っているものだけを見ていては、つくづく、大切な文学を取りこぼしてしまう。乙申、八番目の兎。月のウラ。詩はもちろん、装丁まで、すべてやってのける。この詩集も、そこから出版されたものだ。詳しくはHPをご覧いただきたい。

月ノウラ – 月ノウラは創作のLABです。 (tuki-ura.jp)

「あとがき」によると、この乙申名義の『Alchemia』は、ハンス・ベルメールをテーマにした、澁澤龍彦へのオマージュ的な散文詩集で、完成まで十二年を要したという。恐るべき執念ではないか。わたしは、某学会で、澁澤に関する研究発表を聴いたことがあるが、そんな学者の「健康的」で「安全」なものより、『Alchemia』を読んだ方がずっとよい。澁澤龍彦を感じられる。さらにそこに、乙申氏の息遣いが重なり、何と言ったらよいのだろう、わたしは、大変エロティックな感じを受けた。読んでいるあいだじゅう、その美の世界に耽溺させてもらった。これは、氏の執念であろうか。死への情熱であろうか。この詩集は「Hans Bellmer」「Unikca Zürn」「詩篇十」「泥の寓話」から成っている。どれも、無類に美しい。

「次の夜。対になった心臓のそばで、銀色の翼が流れる吃音を鳴らす。おはようと不死鳥のくちばしの嘆き。遠く、長い時間の果て、盲目に膨れた黒い時刻を、砂のようにさらさらと転がる球体と音。(「Hans Bellmer Ⅱ」)
「平行線。どこまでも伸びてゆく。隣を走るのは誰?遠くに見えたもう一つの影。それでも、かすれてゆく視界の中、きこえるのは飛行機のジェット音。決して、解くことのできない謎。問い。」(「Unikca Zürn Ⅴ」)
「錆びた砂が男の手の中でこぼれ出すと、剃刀を研ぐ音がして、眼球がぐしゃりと音を立てて潰れ、夜に注ぐ滴に混じりあう血の丘に、うねりを従えた蒼白な馬の群が、幾重にも連なり、衝突する」(「八 『城』を巡る旅』)

これを、言葉、というには、何か躊躇いがある。むしろ血である。血の一滴一滴が、文字を成し、刻印され、詩となっている。なぜなのだろう。きわめて情緒的な日本語を使用しているはずなのに、その詩世界はべたついておらず、不思議と乾いている。まるで日本とヨーロッパにおける気候の違いのように。横書きで記されていることも、成功の一因だろう。わたしは、最近、散文詩に惹かれる気持を抑えることができない。散文詩とは、日常と非日常に引き裂かれた世界である。そうした意味においても、乙申氏の詩世界は、大変魅力的であった。いや、もっと正直に言おう。このような日本語を紡ぐことが出来る氏に、羨望を禁じ得なかった。次回作はバタイユとモリニエをテーマにするそうだ。参ったな。これは、ひたすら楽しみである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?