【詩誌評】「凪」第6号を読んで

このたび、詩誌「凪」の同人に加えていただくことになった。本格的な参加は次の第7号からとなる。わたしはこれまで、どこにも所属して来なかった。それはポリシーがあるわけでも何でもなく、お声をかけていただいたことがほぼ皆無であったこと、ほとんど偏屈と言ってもいいほどの人嫌いであることが原因である。その旨も伝えた上で、同人になった。こうなったら、ひたすら勉強、修行である。諸先輩方の足を引っ張らないようにしたい。それでは、ご恵投いただいた「凪」第6号について、拙い感想を述べたい。

今号でぶっちぎり完成度を誇る作品は、鈴木奥さんの「行乞記」であろう。実際、わたしは圧倒された。わたしにこんな力強い世界は書けない。率直に言って、悔しかった。言葉の力強さを第一に自分は詩を書いて来たけれど、そんなことは当り前の大前提なのだと思ったわたしは、言葉に血が通っていない詩を、詩とは認めていない。ここには、地に爪を立てて生きるような壮絶さと同時に、生きなければならなさみしさがある。「くれないか。/俺に椅子をくれないか。ひとまずいまは俺に椅子をくれないか。」で始まり、「どこに向かって乞えばいいのか/分からず海へ頭を下げて回る/俺の汚れた行乞相/両の手で抱けるものなく、/さみしい」で締めくくられる。これは、血で書かれた詩である。

詩村あかねさんの「其処」は、泣きたくなるような詩である。ひらがなとカタカナの使い方が絶妙だ。たどたどしい、せつない生が展開されている。「ここからさきの そこに たどりついたか/チチが そこからさきは ひとりで といった/ハハが そこまでくれば だいじょうぶといった/わかい ジブンが そこを めざすといった/そこは、そこには なにがあるのか わからなかった」。漢字を使わない詩は、そこに何らかの必然性がなければならないと言える。ここにあるのは、まさしく、練り上げられた言葉の果ての必然である。そして、声に出して読むことを運命づけられた詩でもある。ここをどのように朗読するか、ぜひ聴いてみたいものだ。

同様の意味で、園イオさんの「じろうさん」も、言葉の持つ「音」について考えさせられる詩であった。すべてひらがなで書かれたこの詩は、園さんの詩の大きな特徴でもある土俗的な世界観が、さらに地の奥深くにある口承文芸的なもの、つまり音だけで構成される次元にまで踏み込んで表現されている。たとえば以下の部分など、思わず声をひそめてしまうような、ひんやりとした風が吹き抜けるような感じがする。「わたしがみずをくんでいると たけやぶのなかからあらわれて おけをさらって すたすた いえまではこんでくれた ひだりめは わたしを みぎめは とおくとおく うしろのほうをみていた くろいめなのに あおかった」。園さんは、原初の世界と現代世界を、複眼で見ている。

さて、こうして圧倒されながら、わたし自身は、次号、どのような詩を書くのであろうか。まずはこの夏、しっかり、勉強したい。



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