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もの語り「日本創生」〜弥生時代④

昭和というその昔、「言語明瞭、意味不明瞭」と評された政治家がいた、私にとっては以下の叙述文もまた、その類であろうか、模糊としてイメージが湧かない、それを狙った文学でもなかろうに、うん、どうしても口にできない言葉があるのだろう。

曰く、「典型的な弥生式土器の文様と言われていた弥生前期の重弧文であるが、その誕生は東北の亀ヶ岡式と呼ばれる縄文文様の影響によるものであることが最近の研究で判明した。また、土器の分析から、東北地方の晩期縄文人が西日本の各地にやって来て、地元の人々に亀ヶ岡式の華麗なデザインの土器製作を伝授したことも分かってきた。そのような土器は Bc10〜9c頃、九州北部で本格的な弥生文化が誕生する時期に限って、奄美大島から九州、中国、四国といった広い地域から出土する。このことから、西日本の弥生文化の成立に彼ら東北縄文人が、深く関係していたことが分かったのである」と。

とっても貴重な知見なのに、何てことはない、二つの「用語・概念」を投入すればいいのだ、そのことに何の憚りもない趣味人ならではの敷衍訳を、以下に。

① 東北地方北域、亀ヶ岡式土器文化期には、本格的な「縄文農業」をもって多くの人々が生活していた ②Bc11c頃から寒冷期が到来、不作が続くその地を厭った人々が南下、比較的温暖な西日本各地に移住した ③新天地で彼らは、棲み分けと交流をもって地元の人々と共生し、その高度に発達した農業文化を展開、すなわち陸稲やアワ、キビなどの穀類やマメ類の畑作農耕であり、堅果や果実類などの植栽農作などである。また、猟犬はもちろん猪などの飼育も行い、漆を採取して祭祀用の器具の成作など、「縄文里山」を舞台にした目を見張るような文化を展開したのである 。とは言えそれは「第二次亀ヶ岡文化」の再興といったものではなく、消えゆく偉大な文明の最後の輝きであるかのように、である ④彼らにとって水田稲作それ自体は、それぞれの移住地域における縄文農業の中の一文化に過ぎなかったのであるが、繰り返される戦争を契機としてその文化が本格化するに及んで、新たな時代を「在来系弥生人」として迎えたのである。

すなわち ①単なる農耕では言い尽くせない本格的な「農業」が縄文時代にあったのである。また 弥生人とは「文化人」であり、それを生体的な類概念として用いることは理解の混乱を招くだけである。従って ②「弥生人→渡来人」ではないのである。

さて、これからの「もの語り」に臨んで思うこと、それは「ムラやクニ」を語る段ならいざ知らず、その先は「国」をテーマとすることになるのであり、否応なくあの「倭人伝」や「記紀」の問題が視界に現れてくる、ということだ。さてはて、である。

思うに、①縄文時代のムラの出現から近代に至るまで、日本列島における社会の秩序は先ず宗教的な力をもって、次に政治的な力をもって行なわれ、そのような形での両輪体制を本旨とした 。また、②両者の力、それぞれの継承は「親子縁組み」によることが社会通念としても普通であり、特に宗教的な力の継承は「女系」によるものとされていた ③近代以前、有事における政治的有力者の滅亡の際には、その女系の「母–娘」はより強い政治的な力を外戚の夫として迎え入れ、その「子種」を宿して次代に継ぐことを主命としていた ④いつの時代であれ、どの様な社会であれ、一人の人物がその両方の力を占有することは「異例」であり、それを成し得た人物の滅亡と混乱の後に、再び両輪体制へと移行した。

⑤銅鐸の起源は縄文時代にまで遡り、鉄鐸(褐鉄鉱の鈴)→ 銅鈴→「御神体としての銅鐸」という展開であり、それはある意味で、今日に見る神社拝殿の「大鈴」にまで連なっている ⑥銅鐸が首長や王のような有力者の威信財として副葬されていたという事例、それが出土されない限り、銅鐸圏と銅矛圏の「相対」という仮説は採用できない ⑦各地域での本格的な弥生文化の時代〜国が出現するまでの時代、言い換えれば銅鏡が広く現れるまで、銅鐸は弥生ムラやクニの巫女たちが手にする祭器だったのであり、その基本的な用途は「魂振り・霊降りの鈴」である ⑧宗教的な力を担う人々の形態は、ムラの巫女→クニの巫女→国の呪術的な宗女→律令国家の祭祀職、である。

⑨弥生ムラやクニには幾つもの部族、鯨面文身の海人族をはじめ、ツチグモやヒノクマ、カラス、クズ、スネナガ、オナガ、エタ、アラバキ等々がいたが、ヘビ族やイヌ族という「矛族」が漸次中心となっていくのであり、そしてハナタレがいた ⑩中国史書に倭人と呼ばれた人々の領域とは、北部九州〜朝鮮線半島南域に始まり、しだいに水田稲作を中心とする弥生文化の伝播とともに拡大するが、Bc4c頃から西日本と東日本の両域に文化圏が形成されて、およそ「若狭〜尾張〜三河」のライン以西が倭人、それ以東が東鯷人と呼ばれた人々の領域となる 。とはいえ ⑪東西交流の海の道が遥か縄文時代以前から存在し、主に「北部九州〜山陰〜北陸〜東北」や「九州東岸〜瀬戸内〜大和〜東海」であり、「九州南岸〜四国〜東海〜関東」である。

⑫倭人の領域における王国時代には、盟主的な王同士による「国譲り」を目的とした戦争が四度あった。ヘビ族→犬族への盟主交代と、犬族同士でのそれである。一度目は「対馬海流の海の道」を通しで行われ、二度目と三度目は九州島内で行われたのである。そして、近畿域を含む瀬戸内圏の動乱は、これらの大戦の「反動・反映」である。

⑬ハナタレは縄文時代の「鼻曲り」の系統であり、弥生時代以降は「日本海〜北陸〜関東北域〜太平洋」を同族域として活躍し「日高見国」を形成、また馬形埴輪が出土する頃の王国時代には、その系譜から「関東日本国大王」が出現、実は彼が四度目の大戦を興して、日本列島の盟主となったのである。

⑭古事記とは7cの倭国王権による、それ以前の倭国王統についての歴史的物語であり、日本書紀とは8cの日本国王権、彼らは「倭国のまたの名」として自らを継いだのであるが、その王権によるそれ以前の倭国王統についての歴史的物語である ⑮「記紀」における政治的な力の継承に関する主題とは、「倭国王統は血縁的な一系であり、天上からの受託による神権である」及び「その継承者は父系であり、外戚の父の血を受けてその位についた王族の系譜は、後世には傍系として位置付けられなければならない」の二つである。そしてこの主題は、倭人の王達が一般常識としていた「革命」思想に取って代わるもの、「記紀」編纂時に導入された新思想である。

以上のこと、などなど、これらを踏まえた物語が私の「日本創世〜弥生時代以降」というもの、なのであります。なむ、いか様な形でことの語りと致しましょうや、さてはて、である。

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