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もの語り「日本創生」〜古事記外伝②

馬が来た、騎馬族である、その力は在地の勢力と連合して大きく二つの系統を形成した。先ずは、朝鮮南域その西岸を高天原とし、日神を祀る騎馬系犬族、次には遥か中東を原郷とし、また朝鮮南域その東岸を高天原とする部族であり、月星神それを祀る騎馬系蛇族である。更に、息をひそめて「一神教」人たちが忍び生き、覇権の期をうかがっていた。すなわち、蛇・犬・馬・日神・月星族であり、また百済・新羅・出雲・筑紫・大和、ヒタチ族など、その各々の原理主義者たちである。更にまた、仏教伝来と共にそれらは大日系と妙見系とに習合、その命脈を保持して軍事、政治、経済、学術、情報、芸能など数多の文化領域に及び、その権力をめぐる闘争が陰に陽に行われて後の世まで、近代までも今も、その確執は禍根となってこの列島の地脈に、潜み続けているのである。

古事記外伝曰く、磐井の乱の後、筑紫域は元より大和域にても、百済系の勢力が増長し在地系と連合、蛇族と絡み、また犬族と連みながら、仏法文化を広めた。しかしその後、半島の伽耶が滅亡し新羅からの月星族が増長、大和域では主に妙見信仰と習合し、筑紫域では主に大日信仰と習合してその地の王権を掌握、して、在地系のモノノベ、その日神勢力を排斥したのである。すなわち、言わば父としての「大和蘇我王権」であり、またその反動・反映として、言わば子としての「筑紫蘇我王権」である。

また曰く、蘇我勢力の台頭、その中にあって、筑紫国と組みせず、大和国に属せず、また倭国にあらずとして「南山峻嶺の曲」すなわち阿蘇山その裾野域に大王が立った、その男子、日の本の菩薩天子タリシホコの名をもって中国へ国書を示し、大日思想の仏法をもって国を治めたのである、すなわち言わば「九州日本国王権」である。なぜならこの時代以前、東国は日高見国で内乱が起こり、後継の覇王が立つも国中服せず、ついに在地のヒのミコによる春日信仰をもって神権を奉授、その神託の王はあの磐井王の佩刀を帯び、もって「関東日本国大王」の冠名を自らに戴いたからである。

矛を突き立て乱舞に騒ぎかき混ぜて、君よ、滴り落ちる血沼の中に泥田をもって国を造り固めるのか、その諸行の中で悪霊は憑き、鼻をつく罪・穢れの烙印はその肌に異形の影を描く、あな君よ、その汚れをいかなる神道の風と水をもって祓い流し、いかなる呪術の鐸音をもって癒し清めるのか。

更にまた、虚報のつけ火に煙り立ち込め、讒言の耳に家臣をを疑い親族をいぶかる、その間隙につけ入り兵馬を送り動乱の火種を焚きつけて、君よ、ことごとく焦土と化した瓦礫の山を勝者の正義をもって均し、新たな区画の王都を築くのか、その所業の中の非情の手口にケケと笑い、騙されやがってくたばりやがってざまぁ見ろと、時に高揚の波間に赤く、高笑いの声を上げ、また時にその反復の波に黒く、祟りの影に怯え、怨嗟の声におののく、なむ君よ、人の心の病根から、更に深く心魂その元根から生えてくるもの、そこに何を見るのか、また遥かな時の闇から、祖人の過去さらに人間存在の始源から湧き出でてくるもの、そこに果たして、巡る因縁の罪業を見るのか、なむ君よ、祓いきれない流しきれないいくらやっても清められないと鎮魂の呪術を求め、餓鬼・修羅の人間文明の所業を如何なる真言の猛火で焼き尽くし、如何なる法要の術をもってその奈落の淵から自らを救い上げるのか。

古事記外伝曰く、その世紀の乙巳の時に、筑紫の蘇我王が殺された、百済の帰化人による戦闘以前の騙し討ちである、して、継体王の系譜から傀儡の王を擁立し、また期を見て自ら倭国の王位に臨み立ったのである。すなわち始祖王、神武即位の辛酉の年に、百済が撃たれた後の辛酉に、あたかも「新・百済元年」と言わんばかりに、言わば兄としての「筑紫藤原王権・天智」が立ったのである。その反動・反映は大和の蘇我族にも及んだ、すなわち、ここに関東日本国勢力が台頭、それを後ろ盾として、言わば弟としての「大和ヒタチ王権・天武」が興ったのである。

しかし、その辛酉年の2年後、天智は白村江の戦いで敗北、筑紫域を徘徊の後に、大和国の近江に東進、更にその5年後「我は弟なり」として天武が退き、して、天智が立ち、その後ろ盾である最大勢力の国名をもって、言わば「日本国藤原王権・天智」の冠名を戴いたのである。しかし更に4年後、後継の天智の子は百済系を重用、以って再び後ろ盾を得た天武により「革命の乱」が起き、第四の国譲りが行われたのである、すなわち「日本国大王・天武」の誕生である。ここに日本列島において初めて、一つの王権による中央集権的な統一国家が、しかも律令体制として出現したのである。その大王、曰く「滅亡の王家の墓はその末裔をもって守らせ、その王家の興亡の歴史はその国の史官をもって記させよ」と。

すなわち今ここに語る、「大氏」の末裔によって、あの大国主はもちろん出雲王朝や、あの卑弥呼はもちろん筑紫王朝の歴史が語られた。しかし後に「筑紫藤原王権・天智」の末裔によって、それらは神話や外国史書その伝聞の類とされ、あの始祖王・神武でさえも、辛酉革命論の中に封印されて伝説化されてしまったのである。彼らにとっての正当な王統とは「継体→敏達→舒明→天智→光仁」以降という、言わば「百済系純血主義」による選別と編纂の系譜であり、それ以外の多くの王統は「国つ神の父」という外戚の血を受けた傍系に過ぎないのである。ところで、思うに、この「選別と編纂」の勢力は、もはや「古代」の時空において潰え果てた、のであろうか。

今宵の月はソソと、一礼をもって背中を見せた。

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