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もの語り「日本創生」〜古事記外伝①

先ず、思惑あり。すなわち、欲望・願望・意向あり。また事実あり、伝聞あり、信念あり、教条あり、恣意あり。また大王あり、忖度の博士あり、迎合の信徒あり、そして我田引水の「物語」をもって「歴史」だという。すなわち、出雲国伝、筑紫国伝、大和国伝があり、ツガル国伝、日本国伝があった。

古事記外伝曰く、イズモ王朝その大王の治世に翳りが見えた、その封建領域はもとより直轄域でもまた、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、して、九州は北域、方方墳を墓制とする国の中から魔王と呼ばれた覇者、すなわち「犬族一神教」の男王が立ち、我は男神アマテルの具現王だと放言、恐怖の強権をもって国譲りを強行しようとした、が、妥協の知恵なく術なく国中服せず、その男の栄華、光陰矢の如くに潰え果て、倭国さらに争乱、こもごも相誅殺したのである。

また曰く、すでに弥生ムラの頃、稲穂の守り神として巻き尾の犬を祀る信仰が現れていた、すなわち、その勢力と共に天照地照の神、その信仰も広がった、しかしそれは在地のヒのミコ信仰との習合であり、やがて王の中の王が現れ始める頃に、その巫女の姿は二系統に別れて整い、もって現れた、すなわち 一つは国やクニ以前から続く聖域、その祠の巫女であり、もう一つは大王たち、その「神権国家」の現れによる巫女である。

その一方の巫女とは、もはや鐸を鳴らして舞う巫女ではなく、それを祭器として祭壇に据えて祀る巫女であり、また、ジョウモン以来の伝統を継ぎ、神霊の依り代としての鐸を土中に埋めて祀る巫女である、すなわち、春分秋分の太陽の道を聖線として読み、その線上の要所の基点から夏至冬至における日神の出入の門、それを山の背に望むヒのミコであり、豊穣と戦勝を占いその日和を計る巫女である。

また他方の巫女とは、国の神学によって位置づけられた権威であり、その王権と両輪を成す神権を担う巫女である、すなわち、もはや鐸を鳴らして舞う巫女ではなく、天照地照の鏡をかざす光の巫女であり、その存在は国の形が「神権国家」へ移行するとともに増長、果ては王妃や女王の座に臨み坐すようになる巫女である。そして、この権威が遍く広がるにつれて「国家祭祀」における鏡が重用され、銅鐸の役割が終焉していったのである。

古事記外伝曰く、暦年の倭国大乱の世に厭戦の空気が漂い、誰が立つのか、為す術も力も現れることなくいたずらに戦乱の世が流れ過ぎた、時に、九州は北域、融和をもって治めることを正義とし、それを徳とする男子が立った。して、鬼道をもって衆をよく惑わす一女子を王に立て、国中が治まり、また自分は軍事と政治を握って後ろ盾となり、融和の王権の証とばかりに方円墳の墓制を築き盛り、中国は後漢の頃に朝貢、その威光を背にして倭国の実権を手にした、すなわち第二の国譲りであり、第一次の倭国筑紫王朝の始まりである。更に曰く、この国譲りの反動は倭国域に広がり、出雲に大和に、また東鯷人の域内にも及び、それぞれの地の蛇族犬族融和の反映として、方円墳の墓制が現れたのである。

また外伝曰く、そこは九州の地、石人・石馬の大王があった、平地の田畑から富を収穫、また阿蘇山の裾野を牧場にして馬を産出、先ず王妃をもって祭祀の巫女に戴き、次に武を布いて令を定め、律を下して天下を治めた。ここに、武官文官その百官を前にして告げたその玉音、「私は倭国の大王である、中国は後漢の帝より金印を賜った倭王イナァを始祖王とし、血筋の違う別王朝と言えども親子の縁を結んで王統を繋ぎ、また国譲りをもって統を継ぎ、倭国の盟主その玉座に臨んだ代々の大王と理由を同じくする王、磐井である」と。すなわち讃、珍、斉、興、武の倭国五大王と呼ばれたのが第二次筑紫王朝であり、その末裔として統を継ぎ、その盟主の座に臨んだのである。

また外伝曰く、瀬戸の内海の東方、大和国からの風聞あり、その出自はおそらく大和国との遠縁、百済国であろうか、先行王朝との親子の縁も定かでない世継ぎの王が現れた、その王の放言「高天原、その天神からの王統を一系に継ぐものこそが倭国王に適うもの、それこそが我が王朝であり、出雲や筑紫の王朝など神話伝説の類い、その実はただの豪族に過ぎないのだ、諸家の語る帝紀及び本辞をことごとく焚書とし、我が王朝その系譜の名の下に、偽りを削り真を定めて歴史を記せ」と。

昔、出雲王朝におきた嘆きが再演されるであろう、今年、吉備王からの貢物が届かないのは何故かと、すなわち吉備王、南面する筑紫王の前に膝まづいて臣下の礼を摂った、して、最初の倭国国譲りが行われた、吉備王、二度目の時は動くことなく、もって九州域でそれは行われた、吉備王、この度は北面して大和王の前に額づいたのである。すなわち、国譲りが行われるであろう、「磐井の乱」が起こるのだ、その平定をもって倭国の王権が大和国へと移行するであろう、しかし、この王朝は親子の縁を結び、中国と冊封をもって関係した世々の王統へと繋ぐこと、その大義を摂ることはしないのである。

また外伝曰く、大和王使いをもって磐井王に貢物を求めた、朝鮮に兵を送る、よって馬を献上せよと。ここに、筑紫王の玉音、「大和の使者に言え、どこの鶏肋か馬骨か、その原郷は百済か、出自不詳の世継ぎの王よ、汝に倭国王の位を下賜すると、故にこの磐井は新たに天皇と日本国の名を自らに戴くと。また武官よ聞け、精鋭の武者と馬飼の技を持つ者、その数千名余と船を整え東国の縁祖の兄弟国、その日高見国へと向かえ、また武官よ聞け、我が王妃と姫、末の王子の「影」を立てよ、して、彼の地の王に我が佩刀を献上し、その臣下として働きに働け、その功名をもって後の世に国を興すこと叶わば、その名を日本国と告れ。私は日本を冠した大王であり、もののふの男子である、闘わずして狡猾に生き残るより、花と散ろうと思う」と。

百済紀に曰く「日本天皇及び太子、皇子、倶に崩薨りましぬ」と。また、古老伝曰く「磐井の子、葛子、和平を求め、して、南山峻嶺の曲に終わる」と。

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