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もの語り「日本創生」〜鉄剣と蛇と犬

金属の武器が現れた、銅のツルギであり、また、春秋を数える間もなく鉄剣が現れた、果たして、覇道の男たちはそこに感じ入ったのである、そのキッサキに魅せられたのだ、ヌンと、ためらいなくブレずに一気に突き通すこと、それは武に美を重ね合わせた正義であると。

「いざや、突き通せ、我がままの秩序を広げて区画に敷き延べよ、恭順の君とは血の盃を交わして親子の縁を結び、邪魔立てするものは誰か、ならば革命をもってその一族の息の系譜を断ち切り、そこに我ら王統の種を蒔いて継なぐべし、おおよ、この肉棒の正義をもってツマゴメに、敵将の女たちを押し込んで伏せ倒し、猛者のいななきのままにツマゴメに、その肉を開き晒して突き通せ」

あな、シナドの風よ嘆け、八重雲を吹き上げてその暴力の非情を天空に払い、雷雲の光に撃たせてことごとく散らせ、山よ森よ背を丸めて泣け、しゃがみ込んで涙の川を出だし、その非情を川面に聚めて速川の瀬に流せ、そこに坐す姫よ、さくなだりに落ちたぎつセオリツ姫よ、その非情を大海原に持ち出だせ、またそこに坐す姫よ、荒潮の八百道の潮の八百会いのハヤアキツ姫よ、その非情をかか呑みに呑んで海底に運べ、またそこに坐す神よ、イブキドヌシの神よ、その非情を根の国底の国に気吹き放て、またそこに坐す神よ、さすらいに800年をもって周期的転換を迎え、さすらいに1600年をもって1 旋回となすハヤサスライ姫よ、その非情を引き回してさすらいに失い放ち、ままよ流転の律を打って、その非情への弔いとなせ。

先ず東夷伝曰く、東方海偶、日出ずる処の八島に夷人があった、皮服して竪穴の草屋に住し、狩猟漁労採集して数多の命、すなわち草木鳥獣虫魚の命を食し、また飾りの土器をもって汎神汎霊の祭祀に漂いながら、しかし人神への礼拝を未だ行うことなく、巫女をもって憑依した命の母性、その霊意にまかせて生きていた。して、中国、その人々をジョウモンジンと呼んだ。

また曰く、黄海の東南海その中に海人があった、未だその古来の文化に生きる人々であり、漁労を得意とし、また山島に依って初めて水田を興した、幾世代をもってその新文化を繋ぎ、して、倭人として現れた。すなわち、周王朝の時に来朝して霊草を献じ、また鈴を鳴らして神霊の舞を奉じ、その物腰に礼あり稲穂の実りのごとく首をたれ、その挙手慎み深く嫋やかに膝を屈して座するが故に、中国、その人々を倭人と呼んだ。

また曰く、会稽海外にもまた海人があった、中国江南と交流を重ね、その主流は後に南九州に水田のムラを興し、幾世代をもって東鯷人となって現れた、しかし一部の人々は、北部倭人文化の拡張を厭い逃れて四国島へと渡り、さらに近畿、東海へと東進、すなわち銅鐸域の限りをもってその領域とした。中国、その人々を重ねて東鯷人と呼び、またその東方、大いなる霊山の更に東北に夷人ありと聞けども、未だその名を詳らかに記し得ずにいた。

すなわち曰く、中国は戦国時代その七雄の盛りの頃(Bc4c)に、弥生ムラは統合されてクニを成し、金属の武器が現れて首長が立った、その後数百年を経て、八島の列島西半の夷人域とそれ以東の夷人域に別れて文化圏を形成、倭人域はその数300余をもって、また東鯷人域およびその東北域は合わせて200余をもってクニの大勢を成したのである。して、そのクニの首長たちとは、ネサク・イワサクの開墾の勇者であり、斧を背負い槍を手にして立つ巨人であった。

また倭人域では、幾世代もの戦争を経て淘汰にまとまり、およそ前漢時代の盛りの頃(Bc1c)には、その数100余の国が建ち並び、いざや、鉄剣の王たちが君臨したのである。更に曰く、東方に東鯷人の王国があり、大いなる霊山の東に関東日高見国、さらに北方には東北ツガル国があると云う。

次に倭人伝曰く、北陸〜山陰〜九州の地域を主な舞台として宗族的なクニ連合が出現、それらはヘビを守護霊とし円墳を共通の墓形とする同族の王国であるが、和戦を繰り返しながらも100余の国域、八つの文化域をもってまとまりを成した。またこの大勢力はその地域に止まらず、瀬戸内の両岸、またその東岸へと及び、それぞれの地で楼閣のある大環濠集落の王都を築いたのである。そして曰く、中国は後漢時代(AD25〜220) の始め頃、ヘビ族の王の中の王が立ち諸国を束ねて朝見、中国、蛇をモチーフにした造形のある金印を下賜して倭国王イナァと呼び、もって格別の王位を与えた、すなわち第一次イズモ王朝であり、また後の倭国王スサによる建国、それが第二次イズモ王朝である。

また曰く、中国は後漢時代の中頃に新たな勢力が現れた、稲穂の守り神として巻き尾の犬を祀る部族であり、その多くは男神アマテル信仰を携え倭人域へと広がり、しかし在地のヒのミコ信仰と習合しながら国を興して犬族の王を立て、倭国の盟主の座をうかがった、して、後にヘビ族の大王と王統を交わして国譲りを成し、四隅に脚のある方墳を墓制としたのである。当初、この王たちはヘビ族を抑圧して国中が収まらず、が、海の彼方からカガと輝く知恵の神の助力を得て、直轄域と封建域の両建てをもって治める王が現れ、倭国域は元より関東北域また東北南域までも連合域とした。すなわち、ヤチホコの大王と呼ばれた男子であり、第三次イズモ王朝である。

また曰く、イズモ王朝の終末期その衰退の頃、分流諸派の勢力が倭国内で覇権をうかがった、すなわち犬族連携の証として「方方墳」を築き、またヘビ族との連合その墓制として「方円墳」を建てたのである。して、中国は後漢時代後期の頃、倭国大乱と記された画期を迎えるのである、すなわち第ニの国譲りである。

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