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小説『還らぬ人』

『還らぬ人』
高槻弘壱
 

それは土曜日の朝だった。何の前触れもなく、それは突然やって来た。僕は突然お母さんに叩き起こされた。
「和也、おばあちゃんが倒れたの。道路でいきなり倒れちゃったの。起きて。起きてちょうだい」
 僕は寝ぼけていて、始めは何のことか理解できなかった。でも、お母さんに身体を揺さぶられている間に、事の重大さに目を覚ました。
「おばあちゃん、これから救急車で病院に運ばれるから、あんたも早く起きて着替えて病院まで来てちょうだい。お母さんはおばあちゃんと一緒に救急車で病院に行くから」
「わかったよ」
 お母さんは僕が身体を起こしたのを確認すると部屋を飛び出て行った。家のドアがばたんと大きな音を立てて閉じた。僕は布団から飛び起き、すぐに身支度を整えた。
何故、突然、おばあちゃんは倒れたのだろう。確かに最近のおばあちゃんは家の中で歩くのも随分とゆっくりだった。おばあちゃんは八十歳だ。足腰が弱ってきたのだろうと僕は思っていた。それにおばあちゃんは時折「腰が痛い」と言っていた。おばあちゃんは大丈夫なのだろうか。僕は自転車を全速力で漕ぎ、病院へと向かった。
病院の救急外来の待合室に着くと、お母さんがソファーに腰掛け、頭を抱えていた。
「おばあちゃん、大丈夫なの?」僕は息を切らせながらお母さんに訊ねた。
「ああ、和也。早かったわね。おばあちゃん、まだ治療中なの」お母さんは不安げな表情を浮かべていた。僕はお母さんの隣に腰掛けた。
「何でおばあちゃんは急に倒れちゃったの?」
「今朝、おばあちゃんを整骨院につれて行こうとしてたの。整骨院の玄関先でおばあちゃんが靴を脱ごうとしていたときに身体のバランスが崩れて倒れちゃったの。頭から血が出て、おばあちゃんは痛い、痛いって」
「おばあちゃん、最近、あんまりご飯も食べてなかったし、腰が痛いっていつも言ってた」
「そうなのよ。だから、今朝、お母さんが整骨院に連れて行こうと思って一緒に行ったんだけど。お母さんが一瞬目を離したすきにおばあちゃんは倒れちゃったの。それからは整骨院の玄関先で倒れたきりになって」
 僕とお母さんは黙ってソファーに腰掛け続けた。三十分が過ぎた頃、治療室からお医者さんが現れた。
「佐藤さんのご家族ですね。一応、頭の傷の治療は終わりました。治療室にお入りください」
 僕とお母さんはすぐに立ち上がり、治療室へと案内された。おばあちゃんはベッドに横たわっていた。頭には包帯が巻かれている。そばに寄ると、おばあちゃんはうわ言のように「痛いよ、痛いよ」と繰り返していた。そして、両手で何かを編むかのような仕草をしていた。僕はただただ驚いた。お母さんも言葉が無かった。
「意識障害があって佐藤さんは痛いよ、痛いよって先程からずっと繰り返していまして」
「おばあちゃん、あたしよ。しっかりしてちょうだい。あたしのことがわからないの?」
お母さんはおばあちゃんの両肩をゆすりながら涙をこぼし、泣き叫んた。おばあちゃんは最近あまり元気がないようだった。けれど、こんなに変わり果ててしまったおばあちゃんを見るとは僕も夢にも思っていなかった。
おばあちゃんは数年前まで編み物を趣味にしていたことを思い出したが、それでもおばあちゃんの仕草は、正直、気味が悪かった。
「意識障害の原因が何なのか、MRIで脳を検査します。それと血液検査もしているところですので。検査の結果が判明するまで、もうしばらくお待ちください」
お医者さんだけは冷静だった。僕とお母さんは待合室に戻り、ソファーにぐったりと腰を下ろした。
「おばあちゃん、あんなふうになっちゃったなんて。お母さんが悪かったのよ。お母さんが目を離さなければ」
「お母さんのせいじゃないよ。おばあちゃん、殆ど耳も聞こえなくなってたし、最近は僕が話しかけても、ずっと黙ってたもん。たぶんボケてきてたんだと思う」
「この病院に入院させてもらえたら良いんだけどね。ここだったら、大きくて設備もしっかりしているし、先生たちもみんな優秀だから」
お母さんはすがるような表情を浮かべていた。
「そうだね」
「あのままじゃ、おばあちゃんを家に連れて帰ることになっても、お母さん、どうしていいのかわからないわ」
「僕も」
 それから僕とお母さんは黙り込んだ。僕は壁に据え付けられた時計をじっと眺めた。お母さんは俯いたままじっとしていた。三十分くらい経過したころにさっきのお医者さんが現れ、僕とお母さんは再び治療室に入った。
ベッドではおばあちゃんが点滴を受けている。両手をベッドの両端に拘束されていた。両腕にはベルトが巻かれ、ベッドの両脇に括り付けられている。手にはナイロンの手袋がはめられていた。
「これ、外してちょうだい。お願いだから外してちょうだい」
おばあちゃんはうわ言のように繰り返した。
「点滴の針を抜こうとしたり、頭の包帯をご自分で剥がそうとされるので、両手を拘束させてもらいました」
お医者さんは淡々とした口調で告げた。
「そうですか」
お母さんの声はか細かった。
「MRIの検査の結果では脳の中での出血は認められませんでしたのでご安心ください。ですが、佐藤さんの脳には委縮が認められました」
「脳が委縮しているんですか?」
「まだ、今の段階では確実とは言い切れませんが、おそらくアルツハイマー病に侵されていると思います」
 お母さんはびっくりしてお医者さんの顔を見つめたまま無言でいた。僕もびっくりした。まさかおばあちゃんがアルツハイマーだなんて。この先一体どうなるのだろう。
「……あの、こちらに入院させてはもらえないでしょうか。このままですと私もどうしていいのかわかりませんものですから」
しばらくしてお母さんがようやく口を開いた。
「わかりました。入院ですね。大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。助かります。よろしくお願いします」
お母さんはお医者さんに深々とお辞儀した。
「病室を移しますので、ご一緒にいらしてください。九階の北病棟になります」
そう告げるとお医者さんは看護師さんたちとおばあちゃんのベッドを移動させ始めた。みんなでエレベーターホールに向かい、九階にある病室におばあちゃんのベッドが入ると、僕はようやく緊張感から解放された。お母さんも少し安心したのか、先程までの暗い表情とは違って見えた。
お医者さんと看護師さんは点滴の調整をし終えると、病室から出て行った。僕とお母さんはベッドに横たわっているおばあちゃんの姿をしばらくじっと見つめた。
「じゃあ、おばあちゃん、また明日来るからね」
お母さんはおばあちゃんの耳元で大きな声で告げたが、おばあちゃんにはその声は届いていないようで、相変わらず「これを外してちょうだい。お願いしますから」と繰り返している。おばあちゃんは本当にボケてしまったのだと思った。
「駄目なのよ。これは外せないの。お医者さんのいうことをちゃんと聞いてちょうだい」お母さんはおばあちゃんの耳元で大きな声を出した。
「あんたは冷たいね。頼むから外してちょうだい。お願いだから。お願いしますから」
そう言いながらおばあちゃんは両手にはめられたナイロンの拘束帯をもぞもぞと動かした。僕はまた暗い気分になった。病室の窓から外を眺めると、もう真っ暗だった。
 僕とお母さんは家に帰りつくと、今後どうすれば良いかを話し合った。僕はまだ中学二年生だから、授業が終われば病院に見舞いに行ける。でも、お母さんは会社に勤めているから昼間は病院には行けない。僕の父は僕が小さいころに家を出てしまっていて、お母さんとは離婚している。僕をここまで育ててくれたのはお母さんとおばあちゃんだ。ずっと家族三人で仲良く平和に暮らしてきた。僕が赤ん坊の頃はおばあちゃんが僕の面倒をみてくれていた。だから今度は僕がおばあちゃんの面倒をみる番だと思った。
「私もなるべく残業はしないで早く帰って来てお見舞いに行くようにするけど、和也、おばあちゃんのこと、よろしく頼むわね」
「大丈夫。授業が終わったら毎日見舞いに行くよ」
「当分、お友達とも遊べなくなっちゃうけど我慢してね」
「へっちゃらだよ。友達とは学校で会えるもの」
僕は仲の良い友達には正直におばあちゃんのことを話そうと思った。
「じゃあ、お風呂に入って早く寝ましょう。明日は着替えを病院に届けないとね」
 僕はこれから先どうなるのかわからなかったが、お母さんは少し安心してくれた様子だった。
食事を済ませると、風呂に入り、今日一日に起きたことを反芻した。いつもなら、僕は土曜日には毎週昼過ぎから近所のグランドでサッカーをしている。地域のサッカーチームに所属しているからだ。ポジションはミッドフィルダーだ。月に一度、練習試合もある。でも、今日は突然のことで監督に練習に出られなくなったことさえ告げていない。いや、これからは試合はおろか、当分の間、練習にも参加できないだろう。
僕にはサッカーよりもおばあちゃんの方が大切だ。おばあちゃんの具合が良くなれば、またサッカーはいつだってできる。ちょっとの辛抱だ。
 風呂から上がり、居間に行くとお母さんが椅子に腰掛け、肩を震わせていた。時折、小さな泣き声が聞こえた。僕は声をかけることができず、足音を立てぬように自分の部屋へ向かった。お母さんが泣いているのを見ているのは辛かった。そりゃあ、僕だっておばあちゃんがあんな風になってしまったことはショックだ。でも、泣きたくはならなかった。きっと、おばあちゃんの具合は良くなると信じていた。もしかしたら明日病院に見舞いに行けば、元の元気なおばあちゃんに会えるかもしれない。僕は布団にもぐり込むと、少しでも良い方向にこれからは進むのだと自分に言い聞かせた。
 翌朝、お母さんは着替えや身の回りの物をカバンに詰め込んだ。
「和也、悪いけどお願いね。お母さんも洗濯と掃除が済んだらすぐに病院に行くから」
「大丈夫。任せておいて」
僕はお母さんからカバンを受け取ると、自転車で病院へと向かった。おばあちゃん、少しでも具合が良くなっていないだろうか。いや、もしかしたら、今日は意識もはっきりしているかもしれない。僕の頭の中はおばあちゃんの具合のことで一杯になった。
 病室に入ると、おばあちゃんは相変わらず両手を拘束されてベッドに横たわっていた。点滴の管が痛々しかった。
「僕だよ、和也だよ。おばあちゃん、おはよう」
 おばあちゃんは僕を見ると「これを外してください。ねえ、お願いだからこれを外してちょうだい」と哀願してきた。
「駄目だよ、おばあちゃん。それはできないんだよ。外しちゃうと危ないから駄目なんだ」
 おばあちゃんは両腕を力任せに動かし、何とか拘束帯を外したがっている。
「あんたはここの回し者かい? 冷たい人だねえ。頼みますからこれを外してください。お願いしますから、ねえ」
 おばあちゃんは僕が誰なのかもわかっていないようだ。僕の落胆は大きかった。まあ、昨日はもっと具合が悪かったのだから、これでも少しはましになったのかもしれないと思った。
ぶつぶつ言っているおばあちゃんには構わず、カバンの中から、持ってきた着替えやティッシュなど身の回りの物を備え付けのラックの中にしまった。荷物を整理している間に僕は少し落ち着くことができた。でも、おばあちゃんはこれから先もずっとこのままなのだろうかと不安も覚えた。
「ああ、佐藤さんのお孫さん。おはようございます」
看護師さんだった。
「おはようございます。おばあちゃんはどうなんでしょうか」
そう訊ねずにはいられなかった。
「そうねえ。点滴が外れるようになるまでにはまだ時間がかかるわねえ。それまでは辛抱してもらうしかないですね」
「そうですか」
看護師さんは腕時計で点滴のスピードの調子を確かめている。
「ねえ、お願いだからこれを外してくださいよ。頼みますから」
おばあちゃんは相変わらずだ。
「佐藤さん、ここがどこだかわかりますか? ここは病院なんですよ」
看護師さんが大きな声で告げた。おばあちゃんは「病院?」と不思議そうな声を出し、唇を尖らせた。
「佐藤さんは昨日からここに入院してるんですよ」
 おばあちゃんは黙ってしまった。おばあちゃんには今の自分の状況すらわかっていないようだ。
「佐藤さん、お熱を計りますからね」
看護師さんは体温計をおばあちゃんの脇の下に挟み込むと、今度は脈を測った。ピピっという音が鳴ると看護師さんは体温計を確認し「佐藤さん、点滴、あともう少しだから頑張ってくださいね」と告げ、病室から出て行った。
 僕は折りたたみの椅子に腰掛け、おばあちゃんの顔を見つめた。こんな風にボケてしまうなんて夢にも思わなかった。まだ諦めがつかないのか、おばあちゃんは両腕をもぞもぞと動かしている。見ているだけで辛い気持ちになった。お母さんが早く来てくれないだろうかと思った。
でも、こんなありさまのおばあちゃんの姿を見れば、お母さんはきっとまた悲しむに違いない。どうにもならないことがあるのだと僕にはわかった。これが現実なのだと。僕に何ができるだろうかとも思った。
僕が役に立てることがあるのだろうか。僕にできることと言えばせいぜい着替えを運んだり、何か必要なものを買ってきたりすることだけだろう。僕は医者じゃないし、おばあちゃんの具合を良くすることはできない。せめて、毎日見舞ってあげよう。それしか今の僕にはできないのだから。
 昼時になり、看護師さんが食事を運んできてくれた。テーブルの上にお盆を載せると、看護師さんはおばあちゃんの両手の拘束帯を外し「佐藤さん、お食事ですよ」とおばあちゃんの身体をベッドから抱きかかえ起こした。僕は家から持ってきた食器をラックの引き出しから取り出し、テーブルの上に載せた。おばあちゃんはテーブルの上を眺めるだけで食事に手をつけようとしない。
「佐藤さん、今朝も殆ど何も食べてないでしょ? 食べないと具合が良くなりませんよ」
看護師さんが大声で告げた。けれど、おばあちゃんはテーブルの上に並べられたごはんやお味噌汁とおかずを眺めるだけで一向に箸を動かそうとしなかった。看護師さんはしばらく食事をするように勧めていたが、やがて病室から出て行った。
「おばあちゃん、食べないと良くならないって看護師さんも言ってたでしょ。ちゃんと残さずに食べなくちゃ駄目だよ」
僕の気分は何故だか自然と荒立った。けれど、おばあちゃんは僕の言うことを聞くどころか、自由になった右手で、左腕の点滴の針を外そうとした。
「駄目だよ、おばあちゃん、危ないよ」
慌てて手を抑えつけた。おばあちゃんの腕の力は思っていたよりもずっと弱く、抗うことはしなかった。でも、これでは両手を拘束されるのもわかる気がした。危なくて仕方がない。
「おばあちゃん、ご飯だよ。ちゃんと食べてよね? 頼むから言うことを聞いてよ」
声が大きくなるのが自分でもわかった。身内の僕でも頭にきた。看護師さんの苦労がわかる気がする。おばあちゃんはようやくお味噌汁のお椀を手にしてくれた。けれど味噌汁を少し啜っただけで、ご飯やおかずには一切手を付けずにベッドに横たわってしまった。一体、どうすれば良いのだろう。これでは僕もお手上げだ。
「ああ、和也。遅くなってごめんなさい」
やっとお母さんが病室に来てくれた。
「おばあちゃん、味噌汁をちょっと飲んだだけであとは何にも食べないんだよ。今朝も殆ど何も食べてないんだって」
僕は必死でお母さんに訴えた。
「そう……。おばあちゃん、この頃うちでも食欲がなかったみたいだから。お母さんが何を作ってもいつも残してたし……」
お母さんはすっかり困りきった表情を浮かべた。
「まだ、おばあちゃんはボケたままだよ。僕のことも誰だかわかってないし、ここが病院だっていうこともわかってないんだ」
「そう……」
「点滴の針も自分で勝手に抜こうとするから、それは僕が止めたんだ」
 お母さんは黙り込み、ベッドに横たわるおばあちゃんの表情を見つめた。
「椅子を借りて来るから。お母さん、この椅子を使ってよ」
病室から出ると自分にのしかかっていた重たいものから解放された気がした。廊下を歩いてナースセンターに行き、看護師さんからすぐに新しい椅子を借りた。
「佐藤ですけど、食事を殆ど食べないんです。味噌汁を少し啜っただけで……」
僕は困り果てて看護師さんに告げた。
「そうですか。栄養補給を鼻から管で入れるようにしないといけないかもしれませんね。先生と相談してみますから」
その一言を聞き、僕は少しほっとした。でも、病室に戻るときにはまた気持ちが重くなった。どうすればこの暗闇から抜け出すことができるのだろう。足取りが自然と重たくなった。でも、おばあちゃんの家族はお母さんと僕だけなのだから、もっとしっかりしなければとも思った。
昨日より今日、今日より明日、おばあちゃんの具合は少しずつでも良くなってくれるに違いない。そう自分に言い聞かせた。椅子を持って、病室に戻るとお母さんがおばあちゃんに食事を勧めていた。けれど、おばあちゃんはベッドに横になっていて、お母さんのことを見ようともせずにいた。
「おばあちゃん、少しでもいいから食べてちょうだい」
お母さんはおばあちゃんの耳元で大きな声で告げた。けれど、おばあちゃんはピクリとも動かずにいた。僕は椅子に腰掛け、おばあちゃんとお母さんのやり取りをしばらく黙って見詰めた。
「今、看護師さんにもおばあちゃんが何も食べないって言ったんだけど、そうしたら鼻から栄養剤を入れるかどうかお医者さんと相談してくれるって言ってた」
「そう。駄目なのよ、和也。さっきからおばあちゃんに食事を勧めているんだけど全然言うことを聞いてくれなくて」
「おばあちゃんの好きな食べ物って何だろう?」
僕は素朴な疑問をそのまま口に出していた。
「そうね。好物ならもしかすると食べてくれるかも」
お母さんは気を取り直し再びおばあちゃんの耳元で大きな声を出した。
「おばあちゃん、何か食べたいものはないですか」
「焼きそば」
「焼きそば? ねえ、和也、売店を見て来てくれる?」
「うん。もし、売店に無かったら近くのコンビニでも探して来るよ」
僕の足取りは軽かった。ようやくおばあちゃんが食べる気になってくれた。エレベーターで地下に行き、売店を覗くとやきそばは置いていなかった。
僕はすぐに病院の外に出た。自転車に跨り、あてずっぽうに歩道を走った。しばらくするとコンビニの看板が見えた。ソース焼きそばをレンジで温めてもらい、病院へと急いで戻った。病室に入るとお母さんは黙って椅子に腰掛け、おばあちゃんの背中を見つめていた。
「おばあちゃん、焼きそばを買ってきたよ」
僕の声はいくらか明るみを帯びていた。それでもおばあちゃんはベッドから起き上がろうとしてくれない。僕はベッドの脇に回り込んでおばあちゃんの目の前に湯気の立つ焼きそばを差し出した。
「焼きそばだよ、おばあちゃん。ほら、美味しそうだよ」
 おばあちゃんはそれでもしばらくじっとしていた。けれど、やがてゆっくりと身体をベッドから起こした。僕は急いで割り箸をおばあちゃんに手渡した。おばあちゃんはやっと焼きそばを食べ始めてくれた。お母さんと僕はかたずをのんでおばあちゃんを見つめた。しかし、おばあちゃんは焼きそばを一口食べただけで箸の動きを止めた。そして、テーブルの上に焼きそばと箸を置くと、「もう、いらないよ」と再びベッドに横になってしまった。
せっかく買ってきたのに。僕の落胆は大きかった。たった一口しか食べてくれないなんて。正直、頭にもきた。せっかくおばあちゃんのために急いで買ってきたのに。
「仕方ないわね。和也、お母さん、ちょっと看護師さんに相談してくるから見ててちょうだいね」
「わかったよ」
僕は椅子に腰掛け、何とか平常心を保とうとした。ふと、自分のお腹が減って来たことに気付いた。お腹が減って来ていたことで余計に頭にきているのかもしれない。勿体ないし、僕はおばあちゃんが残した焼きそばを食べた。お腹が減っていたせいもあるかもしれないが、コンビニの焼きそばは美味しかった。
「今、看護師さんが鼻から栄養剤を入れてくださるって」
お母さんが病室に戻って来た。僕は腹が膨れてようやく冷静な自分に戻った。
「お母さん、お腹空かない? 大丈夫?」
「大丈夫よ。うちで済ませてきたから。和也、あなたは?」
「勿体ないから焼きそばを食べたよ」
「そう。ごめんなさいね、和也」
 そこへ栄養剤の袋をもった看護師さんがやって来た。
「佐藤さん、鼻から栄養補給しますからね」
看護師さんはてきぱきとした動作でおばあちゃんの鼻にチューブを挿入し、栄養剤を点滴と同じように注入し始めた。しかし、おばあちゃんは空いている右手で鼻からチューブを抜こうとした。
「ああっ、駄目ですよ、佐藤さん」看護師さんはおばあちゃんの両手に拘束帯をはめると、ベッドの両端にベルトでくくりつけた。
「ああ、これが嫌なんだよ。嫌いなんだよ。頼むから外してください。お願いしますから。ねえ、お願いですから」
また昨日までのおばあちゃんに逆戻りしてしまった。
「佐藤さん、危ないから我慢してくださいね」
看護師さんはおばあちゃんの耳元で大きな声で告げた。
「おしっこが漏れちゃうよ。トイレに連れて行ってください」
「大丈夫ですよ、佐藤さん。紙おむつを履いていますから」
「大丈夫じゃないよ。おしっこが漏れちゃうよ。嫌だよ。トイレはどこ? 頼むからトイレに連れて行ってちょうだい」
おばあちゃんは両腕をもぞもぞと蠢かせた。
「じゃあ、すぐに車椅子を持って来ますから。佐藤さん、ちょっとだけ待っててくださいね」
 看護師さんはそう告げると病室から足早に出て行った。
僕とお母さんはしばらく黙りこんだ。これからずっとおばあちゃんはこんな状態なのだろうか。お医者さんや看護師さんたちだっていつまでも面倒をみてくれるわけじゃない。いつかは退院しなければならないだろう。
アルツハイマーという病気がどんな病気なのかはテレビ番組で観たことがあり僕も知っている。今現在では病気に有効な薬も開発されていない。本当にボケてしまってそれまでとはまるで別人のようになってしまう。おばあちゃんはおまけに食欲もなく、身体は弱る一方だろう。
おばあちゃんが元気な姿を取り戻すことなんかないだろう。このままおばあちゃんは死ぬまでボケたまま過ごすのだ。お母さんと僕はそんなおばあちゃんの面倒を死ぬまでみなければならない。僕はまだ我慢できるかもしれない。でも、お母さんは会社でくたくたになるまで働いて、その上におばあちゃんの世話まで待っている。大変なことだ。おばあちゃんが家に戻って来たら僕はお母さんの体の方が心配だ。
それでも僕とお母さんはいずれは看護師さんの替わりを務めなければならない。看護師さんが車椅子におばあちゃんを乗せて病室を出て行くと入れ替わりにお医者さんが現れた。
「厳しいことを言わなくてはなりません。佐藤さんの意識が今後はっきりと戻る見込みは無いでしょう。我々にも手の尽くしようがないのです。ご理解ください。今は身体が衰弱しているので、点滴で栄養補給して、一定程度まで体力が回復するまでの治療に専念します。ですが、その後は積極的に治療することもないので我々にもできることが無くなります」
「そう言いますと、それは、つまり……」
お母さんの声は弱弱しかった
「退院していただくしかないということです。まずは役所に申請して要介護度の認定を行ってください。それもできるだけ早くお願いします。介護度によって国からの援助もあります。場合によっては介護福祉施設に佐藤さんを入所させるということも可能です。そう言った施設は我々もご紹介しますよ。もし、ご自宅に引き取られる場合には介護ヘルパーを頼むと言うこともできますから」
 それだけ告げるとお医者さんは病室から出て行った。僕とお母さんは無言でお医者さんを見送った。
「ねえ、お母さん、どうしたら良いの? だって、あんなにボケちゃったおばあちゃんの面倒をどうやってみれば良いの?」
僕は言いたくなかったがそれでも言わずには居られなかった。
「私にもどうすればいいのかわからないわ」
お母さんの顔はすっかり蒼ざめていた。
 その後、一週間、学校から帰ると僕は毎日病院に通った。見舞いすること自体は苦にはならなかった。ただ、おばあちゃんはずっとボケたままだった。ベッドに横たわり両手には拘束帯がはめられたままで、両腕をベルトでベッドの両端に固定されてもぞもぞと蠢いていた。頭の包帯は取れたけれど、まだ、おばあちゃんは食欲もないままだった。
身体は目に見えて痩せ細っていた。本当に体力が回復するのだろうか。点滴と栄養剤で最低限の体力は維持している様子だけど、おばあちゃんの痩せ方は異常な程だった。そんなおばあちゃんをこれから毎日見続けなければならない。それもおばあちゃんが死ぬまで。おばあちゃんの体力が回復したらこの病院からも追い出されてしまう。
家に戻って来たらどうやって面倒をみろと言うのだろう。僕には学校があるし、お母さんには会社がある。家計を支えているのはお母さんの収入だ。お母さんが会社を休むわけにはいかない。収入がゼロになってしまっては我が家が絶望的だ。
やっぱりヘルパーさんに面倒をみてもらうか介護の施設で預かってもらう以外に方法はないだろう。僕にだってそのくらいのことはわかる。僕が学校に行っている間におばあちゃんを一人きりにすることはできない。でも、ヘルパーさんを頼んだり、介護の施設におばあちゃんを預けると一体どれくらいのお金がかかるのだろう。
国から援助が受けられるってお医者さんは言ってたけど、どのくらい援助してもらえるのだろう。家はこれまで慎ましい生活を送って来た。決してお金持ちとは言えないことは僕にもわかっていることだ。お母さんはどう思っているんだろう。おばあちゃんを施設に預けるつもりなのか、それともヘルパーさんを頼むのか。
 それからさらに一週間後、介護の認定度を決めるために役所の人が病室にやって来た。僕が見舞いに来たのと入れ替わりに役所の人は帰って行った。おばあちゃんは相変わらず僕が誰なのかもわかってくれない。けれど、看護師さんにおばあちゃんの食欲が出てきたと言われた。それを聞き、僕は少しだけ嬉しくなった。痩せ細ったおばあちゃんを見ているのはやっぱり辛かった。少しでも体力が回復してくれたらそれで良いと思うようになった。
 おばあちゃんの退院は予定より三日遅れた。お母さんがお医者さんにあと三日だけ待ってほしいと頼み込んだのだ。その間にお母さんはケアマネージャーと相談し、ヘルパーさんの準備をした。僕は学校があったのでおばあちゃんの退院には付き合えなかったけれど、学校から家に帰るとお母さんとヘルパーさんがリビングで話していた。
「和也、お帰り。こちらは明日からおばあちゃんがお世話になる石井さん」
「こんにちは、和也君」
石井さんは小太りでメガネをかけている。
「こんにちは。はじめまして。おばあちゃんのこと、よろしくお願いします。お母さん、おばあちゃんの様子は?」
「お昼を済ませて、今は二階で眠っているわ」
 僕はおばあちゃんの部屋をそっと覗いてみた。暑いのか、おばあちゃんは布団を蹴っ飛ばしてぐうぐうと鼾をかいて眠っている。今は眠っているから良いけれど、起きたら、これまでと同じようにおばあちゃんは僕が誰なのかわからないだろうし、お母さんのことも誰だかわからないのだろう。
退院したとは言っても治る見込みがなくて無理やり退院させられたようなものだ。リビングに戻ろうと階段を下りて行ったら、石井さんが帰るところだった。
「では、明日の朝八時に伺いますので」
「よろしくお願いいたします」
お母さんは何度もぺこぺこと頭を下げていた。僕は何となくだが石井さんに挨拶をする気になれずに、階段の途中でじっとしてお母さんと石井さんのやり取りに聴き耳を立てた。
「和也君は大体何時頃にお帰りになるんでしょうか」
「そうですね。三時過ぎには帰って来ると思います」
「では午前八時から午後三時までということで伺いますので。失礼いたします」
「ありがとうございました」
ドアがばたんと締ったところで、僕はリビングに向かった。
「ねえ、あの石井さんって言う人、大丈夫なのかな」
「大丈夫よ。もう、この道十年以上のベテランのヘルパーさんらしいから。何で和也はそんな変なことを心配しているの?」
「ううん、別に。ただ、何となく」
僕はそうは口に出したものの、心にわだかまりを抱えていた。これまでおばあちゃんとお母さんと僕の三人でずっと暮らしてきた。そこに他人が入ってくる。お母さんは朝から夜まで会社で昼間は家にいない。そのせいだと思う。お母さんは家に居る時間が僕よりも短い。だから、他人が家に入り込んでくることをそれほど気にかけていないのだ。僕にだって学校があるから仕方ないのはわかっていても何か嫌な予感がした。

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