フランス料理の歴史~高須賀の美食入門22~

続いてフランス料理の歴史を辿っていきましょう。食という側面から歴史をみてみるのも面白いものです。

~中世~

フランス料理の歴史といってもどこをスタート時点に設定するべきかは難しいのですが、一般的には1380年前後に宮廷料理人であるタイユヴァンが「ル・ヴィアンディエ」という著作を出した時を端とする事が多いようです。

その理由として、これ以前のフランスでの料理技術は「親方からの口伝が全て」だったのに対し、タイユヴァン以降は「公開された情報を元に、様々な論点から技術を取り入れ研鑽するようになった」からだといいます。先ほどフランス料理の哲学を「技術は広く公開し、様々な検証を加えたうえで良い文化を取り入れ、至高の美食を作り出す」と定義しましたが、その発端はここにあるのです。


これから先の記述でわかると思うのですが、フランス料理の一番の強みは「他国の良い点をみつけだし、それを躊躇なく自国の文化に取り入れていくという柔軟性」にあります。言葉にすれば簡単な事のようにもみえますが、これが出来るという事はよっぽど芯がしっかりしていないと不可能です。事実、他国の食文化でこのような事が行われている国はほぼ無いに等しいのですから。

ではそんな中世ではどういう料理が出されていたのでしょうか。実は現在でもタイユヴァンの著書は残っており、そこから当時出されていた料理がどういうものなのかをみることができます。「ル・ヴィアンディエ」によると、当時のフランス料理で最も重視されていた事は、香辛料を多量する事だったようです。現在でも多少のスパイスは使われますが、当時の使用料は比較にならないぐらい多かったようで、料理がうめつくされるぐらい香辛料をきかせるのがよいとされていました。


エスニック料理じゃあるまいし、現在では全く想像もつかないフランス料理です。なんでそんな事をしたのでしょうか?それを理解するためには料理を通して権力顕示がなされていたという文化的背景を理解する必要があります。フランスは今でも歴然とした身分制度がある国ですが、当時のそれは現在とは比較にならないものでした。席順や地位のみならず、食卓の場でも貴重品である香辛料を惜しげも無く使う事を通して、財力の差を見せつける事が当時の貴族社会では非常に大切だったのです。


その他にも貴重品であるという事実そのものが料理の美味しさに寄与した可能性もあります。私達も権威や貴重品をありがたがってしまう傾向がありますが、この頃から全く進歩していないともいえるでしょう。


料理の味付けはというと比較的シンプルなものが多かったようです。まあ香辛料が多用されていたので、味がよくわからずこだわりようがなかったのかもしれません。現代のフランス料理最大の特徴であるソースはまだ技術として未確立だったようで、この頃はまだその姿はハッキリとはみられません。

~ルネッサンス以降~

その後17世紀までは大きな技術革新は生まれず、中世とあまりかわらない料理が出されていました。しかしこの間の1533年、後にフランス料理を爆発的に革新させる重大事項がおこりました。イタリア人・カトリーヌ・ド・メディシス嬢が後のフランス王となるアンリ2世に嫁いだのです。


この話だけ聞くと「ん?それが何で重要なんだ?」と思うかもしれません。解説すると、当時のフィレンツェ公国・メディチ家は欧州でも屈指の大富豪であり、メディチ家ではイタリアの中でも粋を集めた一流の料理人を抱えていました。今だと想像もつきませんが、この当時は料理技術に関して言えばイタリアはフランスなんて目じゃないほど最先端を突っ走っていたのです。


その最先端技術がフランス王室にカトリーヌの引き連れた従者を通じて流れ込み、その影響はあっという間に広がることとなりました。結果、美食に貪欲であったフランス人はその技術を水を得た魚のように吸収。これを契機としてフランス料理全体のレベルが飛躍的に高まる事となります(ちなみにフォークがフランス国内で流通し始めるキッカケにもなりました)

そんな中世の食卓風景はどのような感じだったかを見ていくこととしましょう。この頃の宮廷料理はどちらかというと美食(グルメ)というよりも大食い(グルマン)であることがよしとされていました。珍しい食材を多量に、これでもかと当時の貴重品である香辛料と合わせ、一つの皿にデカデカと盛りつけて出す事が好まれていました。現在のフランス料理で行われる一人ひとりに一品づつ出されるサービスをみると、これは非常に不思議な風習にみえるかもしれません。しかし歴史的にみれば、これが本来のフランス式サービスなのです。


このような様式が行われていたのには2つの理由があるとされています。一つは先も述べた「料理を通して周りに権力を誇示する要素が必要とされていたから」。多量の料理を出せるという事自体が豊富な財力の誇示に繋がるのです。ようは食卓という場を通して相手にマウンティングをふっかけていたわけです。


もう1つは「貴族は元々狩猟民族であり、野生の肉を力強くモリモリ食らう姿が好ましいとされていた」から。現代で美食家(グルメ)というと味がわかっている人、というニュアンスが強いですが、当時は大食い(グルマン)である事も、また力強さの象徴として重視されていたのです。

加えてこのサービス方式にはもう一つのメリットがあります。座る席の位置で身分差を明確に分ける事ができたのです。どういう事か解説を加えましょう。まず料理は一つの皿にドカッと盛られて出されるわけですから、当然食べるためにはそれをとりわけなくてはいけません。この時、皿から料理を取ることのできる順番が座る席により決められていました。おまけによい料理ほど、身分が高い人に近い場所に置かれていたのです。


つまり同じ卓に座っていても、末席のものはよいものが取られた後の、残り物しか食べられなかったのです。現代でこれが行われたら無茶苦茶問題になりそうな風景です。この辺、フランスの厳格な身分制度が背景にみえて興味深い。このサービス方式はヴェルサイユ宮殿にてルイ14世の統治下で行われ、1974年のルイ15世の統治下まで続きました。

~17世紀~

17世紀は大きな革新点こそなかったものの、だんだんと水面下で長年の技術の集大成が推し進められていった年だといえます。


まず香辛料が一般にも出回るようになり、貴重品ではなくなった事からいたずらに料理で多用される事がなくなりました。これを契機として、美味しいという1点に料理人の目が向くようになり、だんだんとフランス料理が現在の姿へと近づいていきます。

香辛料で覆い隠されない、素材の味に料理人が着目し始めた事により、段々と食べ物から出てくる旨み(フォン)についての考察が深まっていく事にもなりました。これがクラシックフレンチのアイデンティティとも言えるソースの開発へとつながっていきます。

~18世紀~

18世紀には大きな革命が2つおきました。一つはソースの技術確立。もう一つはレストランの登場です。


ソースは18世紀のマランという調理人により開発されました。少量のブイヨン(スープ)の中で肉を長時間煮込んで作られたグラスソースがソースの始まりとされています(デミグラスソースという言葉がありますが、これはデミ(半分の濃度の)グラスソースという意味です)


このソース、日本人に理解しやすいように説明すると「いったん取った出汁をそのまま煮詰めて水分を飛ばして濃くしたもの」といえばいいでしょうか。つまり旨みを凝縮した液体です。日本では「出汁をひく」と表現し、水の中から最も美味しい成分のみを抽出する引き算の料理の思想がみえるのに対して、フランスのソースはとにかく食材から余すことなく旨みを引き出して、それを味付けにすら利用しようという足し算の料理の思想が垣間見えるのが非常に面白い。


肉を最も美味しく食べる為に「最高の肉」+「肉から取った旨みを濃縮させたソース」を組み合わせるという発想は料理界のコペルニクス的展開であり、旨みを追求した足し算の料理の究極の姿ともいえるでしょう。そしてこのソースという技術が確立された事により、フランス料理は更なる発展を遂げていきます。


続いてレストランの登場です。これまた今の時代をベースに考えると想像もつかないことではありますが、この当時は庶民がフラッと立ち寄ることのできる料理店などほぼ皆無でした。


なんでそんな事になっていたかというと、当時は肉を扱うにしても「何を出していいか」が細かく規制されていたのです。当時の肉を扱っていた店にどういうものがあったかを列挙していくと

①肉を販売する肉屋

②臓物を売る臓物屋

③ハムなどの販売を行う加工屋

④煮込んだ肉(ラグー)などの調理した肉を提供する惣菜屋

⑤焼いた肉を販売する焼肉屋。

この中で細かい同業者規定ができており、その枠を超えて営業する事は非常に困難でした。例えば前菜にハムとスープを出して、メインに牛肉のローストを出すような店を経営したくても、③④⑤それぞれの協定に引っかかってしまうため、そのようなスタイルのお店は出したくても出せなかったのです。


ただ当然というか元来グルメ気質のフランス人がこんな規制の存続を望むわけもなく、徐々にあの手この手で規制の裏をかい潜った闇レストランのような店が増えていきました。結局、国民の感情をくんでか1786年にルイ16世によりおおやけにこの規制は撤廃。ようやく各規定に縛られずに様々な商品を店で出すことができるようになりました。そして徐々にパリ市内ではレストランの数が増えていく事となります。


ちなみにフランス第一のレストランは1765年頃にパリのルーヴル宮近くでブーランジェさんが経営していたブイヨン(スープ)売りの店とされています。噛み砕く必要のない美味しいブイヨンは、当時の人々に薬のような存在として重宝されており、ブイヨンを飲む事をレストレ(フランス語で体力を回復させるの意味)と表現していました。これがそのまま端となり、レストレを売る店=レストランとしてレストランという単語が生まれ、定着する事となります。

そのようなレストラン設立ブームが加熱してく中でフランス革命(1789年)がおきました。これによりフランスの支配者階級であった貴族はその身分を剥奪され、政治は市民の手に委ねられていくこととなります。困ったのは当時の貴族に仕えていた料理人です。貴族の権力が没落してしまったのですから、当然貴族の財力も低減してしまい、意にそぐわぬリストラを多くの料理人が受けたのです。結局、料理人には3つの選択肢が残される事となりました。

①主君とともに亡命し、他の国でかつての主君に仕え続ける

②フランス国内に留まり振興ブルジョワの家で仕事をする

③独立してレストランを開業する

結果この③の選択肢を選んだ者達により、それまで貴族社会でのみ培われてきた最先端の調理技術が一般の市民へと伝えられる事となります。ついに長年の時を経て、洗練された料理が一般市民のもとにとどけられるようになったのです(詳しくは述べませんが、これもアメリカで起きた事と非常によく似ていて興味深い)

そしてフランスのグルメ文化はどんどん発展していき、革命以前は100にも見たなかったパリのレストランの数は1803年には600軒以上と大いに反映します。そしてこの流れをみた国外へと逃亡した料理人もフランスへと戻り、さらにパリのレストラン業界は発展していく事となりました。

またこの頃からフランスにはよき批判者としての美食家の存在も出現してきます。有識者による美食の会みたいなのもポツポツできあがっていたようで、「シェフと食べ手が協力してよきものを作り上げていこう」という姿勢はその後のミシュランガイドの流れにもつながっていきます。個人的には日本の美食業界に一番欠けているのがこの視点で、その構築の礎に本書が役立ってくれたら何よりだと思っていたりもします。


話を美食家に戻しましょう。当時の食の有識者として最も有名だったのがプリア-サヴァラン(1755~1826)です。彼はその著書「味覚の生理学」で料理を一つの学問へと押し上げようとしました。彼は料理を科学や物理学、医学といった知識を総動員して料理を様々な側面から分析。料理がそれらの学問と比較して何ら劣るところがないと説明します。その食に対する真剣な思いは我々も見習うべき点が多々あります。


この本はお硬い要素だけで構成されているわけではなく、ユーモアあふれる庶民が親しみやすい表現も多々見られます。「味覚の生理学」の有名な一節に「君が食べているものを言ってごらん、君がどういう人であるかを言い当ててみよう」という言葉がありますが、全編を通してこのような軽いタッチで初学者を惹きつける表現がみられるようです。面白さも作用してこの本は大いに売れたみたいで、庶民が料理に興味を持つキッカケともなったと言われています。

~19世紀~

この頃の革新点として調理器具の発展があげられます。例えば1850年頃になると、まずガスレンジが登場。1857年には製氷技術が生まれ冷蔵庫も出回る事となり、鮮度を保ったまま食材を流通させるという概念が生まれはじめてきました。これが後々のヌーベル・キュイジーヌという概念へとつながっていきます。

そして美食が庶民のものとなると、かつてのフランス式のサービスは徐々に廃れていき、一皿ごとに出される、現在でも行われているロシア式のサービスへと移り変わっていくこととなります。

貴族の宴ではよしとされたフランス式サービスですが、席順で不都合と差別が生じる点や豪華すぎる盛り付けが出費がかさむ点、そしてなによりせっかくの料理が冷めてしまう事から、徐々に「非効率なのでは?」と疑問を持たれるようになりました。そしてロシアの宮廷等で行われていたサービス方式がフランスにも知られる事となると、フランス人はかつての風習を躊躇なく捨て去りこれを取り入れる事となります。

諸説はありますが、ロシア式サービスは1810年に当時の駐仏ロシア大使のクーラキンヌ殿下により紹介されたのが初めてとされています。そしてナポレオン三世がロシア式サービスを積極的に採択した事により、フランス国内でもロシア式サービスが徐々に受け入れられる事となりました。

そしてロシア式のサービスの普及に伴い、サービス側であるギャルソンの役割も重視されることとなりました。フランスは現在でもシェフだけではなくサービス側にも一定の権威がありますが、これはシェフが料理を、サービス側が店の雰囲気をつくり上げる事で初めてレストランという空間が生きるという思想が背景にあるからだと言われています。日本はまだまだサービス側の地位が低くこの点は見習わなくてはいけないな、と思います。

またこの頃から食事が貴族同士のマウンティングとしての役割から、国際的な外交のための武器としても使用される事となります。これを最も有効活用したとして有名なのがタラーレンであり、そこでタラーレンに仕えフランス料理を大いに発展させたのがアントナン・カレームです。

アントナン・カレーム(1784~1833)は元は極貧の家庭生まれです。彼の料理人としての人生は、経済的理由にて11歳の時に親に家を追い出され、安食堂に転がり込む事から始まります。そこで調理技術を身につけた後、高名な菓子職人のものに弟子入りした事が彼のその後の方向性に強く影響します。

その後、料理人としての腕を磨き続ける中で、彼はそれまで注目されていなかった料理の盛り付けという点に着目。お菓子の盛り付けを参考に、料理の盛り付けをきらびやかなものにしたてる技術を生み出しました。


贅沢な雰囲気が至高とされていた当時の貴族社会の中で、アントナン・カーレムの豪華絢爛な盛り付けの技術は高く評価されました。結果、彼は様々な名手のもとでその腕を振るうこととなります。勤め先としては先に書いた外交官タラーレンの他に、ロシア皇帝アレクサンドル一世、ロスチャイルド男爵などの名が。不遇な出自から考えると、そのキャリアの素晴らしさはあまりにも偉大だとしか言いようがないでしょう。


カーレムの偉業はいくつかありますが、最も優れた点としてフレンチのアイデンティティでもあるソースを再編纂しなおし、4つに分類した事があげられます。

1. ソース・ヴルーテ(小麦とバターで作られた薄いルーを肉や魚の骨から取られた出汁で伸ばしたもの)

2. ソース・アルマンド(卵をベースとした乳化液状のソース)

3. ソース・ベシャメル(牛乳をベースにした白いソース)

4. ソース・エスパニョール(小麦とバターで作られた濃いルーに肉から取ったブイヨンを加えて煮詰めたもの)

とそれぞれ名付けられており、それまで雑多な分類しか無かったソースの系統を確立したことにより、各系統のソースの技術がより磨かれていく事となります。彼はその技術を幾つかの著書に残し、これが後のフランス料理の発展の礎になりました。

~20世紀~

この頃になると、フランス革命の頃の混乱もすっかり落ち着いてきて庶民に比較的生活の余裕も生まれてきたため、人々が旅行するようになりました(例えば有名なオリエント急行の就行は1883年です)。その他、船舶や飛行機といった技術が発達することにより、自国のみならず他国の食文化も容易に入るようになりました。

そして偉大な料理人がまた一人誕生します。オーギュスト・エスコフィエ(1846~1935)です。エスコフィエの偉業はいくつかあるのですが、簡素にまとめると

① アントナン・カレームの時代の慣習であった盛大すぎる料理の盛り付けを簡素化。調理時間を短縮させて、見た目よりも暖かく美味しい料理を提供する事に尽力。またかつてのフランス式サービスを撤廃し、ロシア式サービスの流通に貢献。

②厨房の仕事を組み替えて組織を再編。結果、作業が効率化した。また劣悪な厨房環境を改善し、料理人の健康を初めて重視した。

③「ギッド・キュリネール」を執筆。カレーム以前から築き上げられていた調理技術を単純化・体系化。技術を分け隔てなく公開し、フランス料理界全体の技術向上に努めた。


これらの功績が讃えられ、エスコフィエは現代フランス料理の父とも称されています(天皇の料理人として有名な日本人。秋山徳蔵も彼の元で修行しています)

話は変わりますが、あの有名なミシュランガイドが出たのは1900年です。だんだんと国内の政情が安定し、車という便利なものが生まれると、自然とフランスの人々は余暇に他の地区へと遊びに行くようになりました。旅行の目的は様々ではあるのですが、一部のグルメな人々はパリでは食べられない地方の味を楽しむことを目的として旅行を計画しており、それをオーベルジュと読んでその地の料理に舌鼓を打っていました。

そうした文化的背景がある中で、ガイドブックを作ることで自動車旅行がより活発化しタイヤの売れ行きが上がることが目論みで作られたのがミシュランガイドでした。まさか作った当時はここまで影響力が出るだなんて思いもしなかったようで、当初はなんとタダで配られていたようです。

その後、戦争もあってゴダゴダはあるものの、レストランに対する正当な評価はシェフの間でも高く評価され、ミシュランガイドはフランスでは最も権威あるものの一つとなりました。世界にあまたあるレストランガイドですが、ここまでシェフに影響力を与えている批判文化が成立しうる所にフランスという国の食への真剣さが感じられます。ちなみに三星で評価するスタイルは1933年に確立されました。

近代~現代

その後もエスコフィエの調理スタイルは20世紀までずっと続くのですが、1964年にレイモン・オリヴィエというシェフが東京オリンピックの選手村にて簡素化され軽い調理の和食に出会い、ヌーヴェル・キュイジーヌという新たな流れが登場します。

ヌーヴェル・キュイジーヌというのは、それまでバターがたっぷりと使われ重たいソースにより味付けされたクラシックフレンチ調理に対するアンチテーゼみたいなもので、簡単にいうと新鮮で質の良い食材を使い、脂肪が控えめな素材本来の姿や形、色などを活かした調理であるといわれています。

この頃になるとミシュランの星を争い様々な有名シェフが登場し始める現代美食戦国時代ともいえる様相になってゆきます。ポール・ボキューズ、アラン・シャペルといった現代のシェフに大きな影響を残した人がでてきたのもこの時代です。これらのシェフに影響された日本人も多いです。この頃になってくると段々と日本人シェフのフランスへの留学なども盛んになってきます。段々と日本に本物のフレンチが入ってきた黎明期ともいえましょう。

その後もジョエル・ロブションなどといった有名シェフが輩出されてゆき、1980年前後にフランス料理は世界の美食業界の中でも追いつくもののいない絶頂期を迎えます。そして同時にこの頃からフレンチは若干迷走し始めます。

その後の美食業界の変革としては醤油やスパイスといったオリエンタルな食材を取り入れたフュージョン料理というスタイルが登場したり、スペインのエルブジのような分子ガストロノミーといった液体窒素をはじめ人工イクラ(アルギン酸ナトリウム)や注射器などを使って科学で料理にアプローチする新しいスタイルの調理方法も生まれてきました。


ただどれも今ひとつフランス料理は受け止めきれておらず、中途半端になっている感じは否めません。これまで様々な国の技術やスタイルを取り込み、食の世界を牽引しつづけてきたフレンチですが、今後の方向性を見失っている感があります。

ただここまで辿ってきた歴史からみても、フランス料理は他国からの技術を換骨奪胎して自国に取り入れてより高次元のものを生み出すよい思想が根本にあります。決してこのまま終わるとは思えず、今後誰もが予想だにしなかった新しい美食のスタイルをきっと演出してくれる事でしょう。

こうして振り返ってみると1500年前後ぐらいからおよそ500年もの長きにわたって食事に真摯に向き合ってきたフランス人の国民性には畏敬の念を感じてしまいますね。

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