Takashi Takiguchi

皆さんこんにちは。25歳でオーストラリア・メルボルンへ移住、29歳でオーストラリア認定…

Takashi Takiguchi

皆さんこんにちは。25歳でオーストラリア・メルボルンへ移住、29歳でオーストラリア認定社会福祉士になり、32歳でクィアを公にし、36歳で脱サラ、ダンサー・クリエイティブダイレクターへ。現在45歳。人生最後の迷い道。

最近の記事

    「友達」

    友達という言葉ほど照れくさい言葉はなかった 友達という言葉ほど悩ませる言葉はなかった 友達という言葉ほど覚悟のいる言葉はなかった 友達という言葉ほど守りたい言葉はなかった 友達という言葉ほど密かに誇れる言葉はなかった わたしは大人になりフェイスブックができた 友達になることを申請するようになった 最大5000人の友達が持てるようになった そして友達をやめることもブロックすることも 友達を30日お休みすることもできるようになった 友達という言葉は数年の間に驚くほど変わってし

    「言葉」

    頭の中にふらりと浮かんでは立ち去る言の葉たち 私は彼らを追う虫取り網を下げて 生きています 彼らは心の影にまぎれ溢れてせめぎ合い 舌の裏側やのどの奥にかくれんぼ 私に思い通りの言の葉を捕えさせてくれません いやはや、そうなると根気比べ 私は休息をとるふりをして密かに鉛筆とノートを 隅々までに用意します 台所、トイレ、お風呂、寝室 とにかく私の狙っている言の葉が出てきたら そおぉっと優しく囲い込むように 2B の鉛筆で太くおおらかに 最近は携帯電話の録音機も使います でも

    「漢字の感じ」

    私は「性」を「精」に変更することを提案します 男性から男精へ 女性から女精へ 異性から異精へ 相性から相精へ 性感から精感へ 性器から精器へ 性交から精交へ さあ、なんだか私たちを結ぶ精の力が見えてきました。 根性から根精へ 性根から精根へ 習性から習精へ 活性から活精へ そして私たちの生き抜く力が見えてきました 知性から知精へ 品性から品精へ 感性から感精へ 私たちの認識力もにぎやかになってきて 天性から天精へ 仏性から仏精へ 無性から無精へ スピリチュアリテ

    「漢字の感じ」

    「母」

    今日は母でもある友人や仕事仲間を 特別な目で私は見ます 彼女たちを母としてみるのです そうすると、彼女たちのことがすべて許せてきます 私の母が私のすべてを受け入れて支えてくれるように 母親という偉大な事業に人類を代表して心から感謝します 私の母にも。私の母の子ども代表として 母である友人がいとおしく見えます 私の母をいとおしく思うように 母である友人に優しくなります 私の母にギコチナク優しくしてあげたくなるように 母は私たちの小さな利己的な苦悩にさえ 「出てきなさい

    「二人の言霊」

    気持ちを表すときは英語 日記は英語と日本語で半分づつ 読書は日本語が多く アウトプットは英語 ダンスや演劇、茶道さえも英語の言霊が代表 身体に宿る日本語の言霊が静かに退いていくようで 私はどこかさみしい でも、英語と日本語の言霊が 独特でこっけいな小宇宙を私の中に創造しているようで どこか楽しい 「これは英語でいいけどこちらの用事は日本語でしてね」、と 最近の日本語の言霊は押しが強い 私はこの美しい日本語の言霊が大変好きなのだが 最近よく忘れてしまう

    「二人の言霊」

    「その瞬間」

    うまい詩を書こうなんて思ったその瞬間に 駄作が決定します ただ、それが駄作だと思う裁量があれば そこから何か新しいものが生まれてきます . ああ、これは駄作だな と思ってもなんとか 書き続けること . それが唯一、自分でない自分が ついぞ現れてきて 傑作を生むという 秘密にもならない程の 秘密が詩の歴史にはあると思うのです

    「その瞬間」

    「歓喜の歌」

    あなたの詩はなんだか暗いね 友達は言いました。 ベートーヴェン「歓喜の歌」の始まりを聞いたことはありますか 私は尋ねました。 それは戦士が一本道で迷子になる物語 それは雨神が作物を生み出すために流す涙 それは空に広がる地下室に閉じ込められた太陽 この「歓喜の歌」もやはり 壮大な暗黒から生まれてきたと思うのです だから人の心を打つのです 抑えきれない歓喜とともに私はそう答えました。

    「歓喜の歌」

    「もし」

    もし、私と同様に あなたも孤独を感じているのなら あなたも私も もう孤独ではありません 本当の孤独は 孤独と 感じないことなのです。

    「漠然なモノ」

    月が姿を削るころ 心は何か漠然としたものを求める 心の何か漠然とした穴を塞ぐために 確か僕は漠然とした夢を 漠然とした確かな日々の中で 漠然とではあるが着実に追い求めていた 漠然とした正義感、罪悪感、劣等感、優越感の中で ああ今こそ この漠然とした何かを表現したい この判然とした身体と言葉で

    「漠然なモノ」

    「らしく」

    私は「自分らしく生きる」という言葉が嫌いだ なんだかおこがましい 「人間らしく生きる」という言葉もなんだか 騙されたような言葉だ。 そもそも「自分」という「人間」を 「らしく」生きるというのは どういうことだ 「自分らしく・人間らしく生きる」ということがトレンド化し 皆、マニュアルのページを 一生懸命めくりながら生きている 「あの犬はいぬらしいね」とか 「あの花は花らしいね」とか 「この地球は地球らしいね」 なんて言わない そのくせ、「自分らしい・人間らしい」というは言

    「若気の怒り」

    僕は何に怒っているのだろう 食器を洗わない恋人にか メッセージに返事を返さない友人にか 皆のフェイスブックの楽しそうな写真にか 僕は怒っているのだ 涙の一滴も流せないアーティストに 車を乗りまわす忙しいエコロジストに こどもを踏み台に自己主張する親たちに 本当に価値のあるものの価値が 見出されないこの時代に そしてそんな世の中 僕は怒っているのだ こんな世の中をそのまま受け入れられない 僕のどうしようもないこのナイーブさに

    「若気の怒り」

    「これは鬱なのか」

    私の気持ちや悩みは私の外側にある 空想とはよく言ったものだ 内側にあるのは気持ちではなく内臓 どんなに悩んでも 考えすぎても だから腹は減る 内臓は私のために 何の見返りも称賛も求めずに 私の為に働いてくれている セルフケアを名実ともに 勝手に、立派にやってくれている これは鬱なのか ロビン・ウィリアムズは確か鬱で自殺した 外側にあるはずの心や思想が 身体の内側にある内臓を殺す 「殺す」という言葉は強すぎるのか でも、心臓を止めるとはそういうことだ 自分が鬱でもなんで

    「これは鬱なのか」