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限られた人でしか享受できないモノやコトに問いを投げいれる。
僕の父親は割烹料理人だ。
父は友達をお店に呼んでご飯を振舞ってくれた。
それに苦情を言う親御さんたちもいた、なぜならそういう友達の家庭は複雑な家庭であったからだ。
ストレートに言うと家庭的に貧困であったり、学校でいじめられてしまっている友達だったり。そんな友達を集めてご飯を食べさせていた。
ご飯を食べさせてもらった友達の親は、なんで勝手なことするんですか?勝手に食べさせないでくださいと言う。
でも実際に僕の友達は嬉しそうだった。
もちろん勝手に食べさせてしまっている事自体はあまりいい事ではないのかもしれない。
でも、僕の父親は、地域の子供を育てるのは、自分(父親)にも責任があると思っていたのだ。
僕の父親は正しいことをしている信念があったから屈しなかったし、ほんとうに愛のある行動をとっていたんだなと思う。
自分が同じ状況になったときに、施しを続けられるだろうか?
同じようなことで思うことがある。
僕が最初に修行をしていたお店は客単価が50000円だ。
と言うことは、50000円を出せる人しかお店にこないのだ。
料理人としては私の料理を食べたいと思ってくれる人に食べて貰いたいという気持ちがある。
食べると言うことは全ての人が受けられる喜びなはずだと思うからだ。
もちろんお金を貰えないと料理人も生活ができない。
だから僕が仕事でやる料理は高級料理である必要はないと思った。
高級料理を否定はしていない。
むしろほんとうに素晴らしい世界だ。
修行させて頂いた料亭は当時ミシュランで3つ星を獲得していて、一つ一つの丁寧な仕事が織りなす総合芸術には感嘆していたし、人間の創り出す世界に感銘をうけている。
ただ、食べられる人が限られている。
すなわち本当に欲している人に届かないこともあるということを示唆している。
これは変えられない現実であり、レベルの高いものづくりをしている人が感じる、究極の矛盾とも言えることかもしれない。
もっと書きたいこと、話したいことはあるけど、今日はこれくらいに。
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