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「ランゼッティ チェロ・ソナタ集」(2012, ALCD-1131) ブックレットより

 ランゼッティのソナタに初めて触れたのは、ガット弦を張ったチェロを弾き始めて、1年ほど経ってからだったろうか。歌謡的な旋律が現れたかと思うと、それはすぐに器楽的なパッセージによって中断を余儀なくされ、フレーズの枠と合致しない奇妙なダイナミクスの指示は解釈者を困らせる。一応は数曲のソナタを勉強してみたものの、これはとてもじゃないがコンサートで演奏できる代物ではないと内心では思っていた。その思いが完全に覆るのは、イタリアでの師ナジッロによるランゼッティのディスクと実演奏を聴いたとき。あの奇妙な楽譜から、歌にあふれ、活き活きと魅力的な人間像が浮かび上がるのは私には本当に驚き以外の何物でもなかった。

 それから少し経って私はクリスマス前の賑わうナポリの旧市街を訪れた。スパッカナポリと呼ばれる細長い通りには多種多様な店が軒を連ね、多くの人が行き交っている。人懐こい鼻歌が耳の横を通り過ぎると、突然大きな歓声が聞こえ、子供達が駆けてくる。ふと見上げると通りの上には我関せずとはためく洗濯物。物陰では獲物を探す男が殺気立ったオーラを身にまとっているかと思えば、通り横には天上のものかと思うほど美しいドルチェが並べられたパスティッチェリアがある。教会の前では物乞いがうなだれ、中に入ると奇蹟を起こす聖遺物に人々が祈りを捧げている。ランゼッティの音楽はナポリそのものだと気付くまでにはそう時間はかからなかったと思う。

 均質な時間の中に収斂していくイメージや「癒し」につながるような心地良さよりも、ここではナポリ人の多様な生が展開され、その都度それが肯定されるほかない。落語を「業の肯定」だと言ったのは家元立川談志(奇しくもこの録音の最中にその訃報に接した)だったが、ランゼッティの音楽も、まさに倫理を超えた人間の業の肯定と言っていいだろうと思う。あるときは声となり、ざわめく自然や街の音となったチェロとチェンバロが、聴き手の感情になんらかの働きかけをしてくれたのであれば嬉しい限りである。

 楽譜はアムステルダムの初版譜(1736)とmuseditaによる校訂譜(2010)を使用した。通奏低音にはチェロを加えなかったので、よりボリューム感とバラエティを求めるためにイタリア様式のチェンバロではなく、ミートケ・モデルのジャーマン式チェンバロを使用した。
                            懸田 貴嗣

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