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備忘録としての『シェルブールの雨傘』解題

 社会人講座で教材として取り上げたフランス映画『シェルブールの雨傘』(Les Parapluies de Cherbourg, 1964)には、監督であるジャック・ドゥミ(Jacques Demy)の様々な仕掛けがあり、一度見ただけでは気付かなかったこれらのギミックやオマージュに映画を見る度に気付き、初見から約半世紀を経た今日でもなお新たに気付かされることが多々ある。この項ではそれらの備忘録として、思いつくままに気付いた点を書き留めておこうと思う。
 
1)   Jean Cocteauへのオマージュ
『シェルブールの雨傘』の第1部の中で、アルジェリア戦争への召集令状を受け取ったギィーがジュヌヴィエーヴと離れ離れになることを伝えて、涙にくれるジュヌヴィエーヴを何とか宥めて自宅に連れ帰るシーンがある。通りから路地に入った瞬間2人は歩いていない(脚が動いていない)のに、滑るように道を進んで行く不思議なシーンである。初めて見た時、ギィーが自転車を片手で押していたので、二人で自転車に乗っているのかとも思ったが、あんな体勢で自転車に足を掛けたらフラフラして倒れてしまうだろう。で気が付いたのがドゥミとジャン・コクトー(Jean Cocteau, 1889~1963)の関係についてである。
 映画学校を出た後、ジョルジュ・ルキエ監督のアシスタントを務めていたドゥミは、ジャン・マレと出会い、その後ジャン・コクトーと接触することになった。 これによりジャック・ドゥミは コクトーがエディット・ピアフの為に1940 年に創作した短編劇『Le Bel indifférent』の映画化権を獲得し、1957年に短編映画として制作している。従ってドゥミはコクトーへのオマージュとしてこのシーンを挿入したのではないかとピンと来たのだ。ジャン・コクトーの名作『オルフェ』(Orphée,1949)の前半で、亡き妻ユリディスを冥界に迎えに行くため、この世とあの世の中間地点である「ゾーン」を歩いている時、オルフェは脚を動かして歩いているのに、先導している天使ウルトビーズは不動の姿勢で滑るように前進している。作中で「不動の歩行」(marcher immobile)と呼ばれているこのシーンは、現実から乖離しているゾーンの象徴である。『シェルブールの雨傘』でギィーのアパルトマンに向かう時、路地へ入ったところからがある意味でギィーとジュヌヴィエーヴの2人にとってゾーンに入ったということなのだろう。というのも、このシーンの後、アパルトマンでギィーとジュヌヴィエーヴは初めて結ばれることになるのだから。

『オルフェ』(1949)より、”marcher immobile"のシーン


 
2)   『ローラ』(Lola,1961)と人物再登場
 『シェルブールの雨傘』第2部で、ジュヌヴィエーヴの母エムリー夫人が、経済的窮地を救ってくれた宝石商ロラン・カサールを夕食に招いたシーンでのこと。ジュヌヴィエーヴに求婚したいと言った後、過去の自分についてカサールがエムリ―夫人に語る時、画面上では一見全く物語と関係の無い街の様子が映し出される。気にならない人には何ということもない一瞬のシーンなのだが、これは実はドゥミの故郷であるナントのパサージュ(アーケード街)である。そしてこの場所こそ、ドゥミの長編第1作である『ローラ』の撮影された場所なのである。『ローラ』の主人公であるローラ(演:アヌーク・エーメ)はロラン・カサールの初恋の相手であり、『ローラ』の中でカサールはローラに告白し、振られてしまうのである。ローラは自分を待っていてくれといって姿を消したミシェルという男を7年も待って、その間ミシェルの残していった子供を一人で産んで育てている。そのためカサールからの告白も断り、帰ってくるかどうか確証の無いミシェルを待ち続けた結果、映画の最後で金持ちになって戻ってきたミシェルと再会する。その光景を見かけたカサールは失意の裡にフランスを離れるというところで映画『ローラ』は幕を閉じる。『シェルブールの雨傘』でのカサールの独白は、謂わばその後日談なのである。因みにロラン・カサールを演じたマルク・ミシェルは両方の作品に登場しており、『ローラ』の中でカサールとローラが出逢うシーンにバックで流れる音楽は『シェルブールの雨傘』のこの独白シーンでも同じ音楽が用いられている。作曲は勿論ミシェル・ルグランである。
 このように同じ人物が異なる作品に登場する手法は、バルザックが「ゴリオ爺さん」などで用いた「人物再登場」と呼ばれるものである。更にそれだけでなく、映画『ローラ』には『シェルブールの雨傘』に対する様々な仄めかしのようなものが散りばめられている。
  例えば帰ってくる当てのない男の子供を育てながら7年も待ち続けたローラは、ギィ―の2年の兵役(実際には負傷して1年半で除隊している)を待てずにカサールの求婚に応じたジュヌヴィエーヴと見事に対照を成しているし、『ローラ』に出てくるデュノワイエ夫人とセシルの母娘は、エムリ―夫人とジュヌヴィエーヴの前駆を成している。またこのセシルは映画『ローラ』の最後に、「シェルブールの叔父さんの家に行く」という書置きを残して家出するのだが、『シェルブールの雨傘』の前半でジュヌヴィエーヴがギィーとデートでオペラを見に行く時、母親に女友達のセシルと行く言う嘘をついている。セシルなんて名前はありきたりだから同一人物かどうかはわからないが、「シェルブールに行ったセシル」ということで何かしらの意図があるように思えてならない。

3)母一人・娘一人のモチーフ
 この母一人、娘一人のモチーフは後年のドゥミーの作品『都会の一部屋』(Une chambre en ville,1982)でも主人公フランソワ・ギルボー
(演 :リシャール・ベリ)の住む部屋の大家である男爵未亡人(演:ダニエル・ダリュー)とフランソワの運命の女エディット(演:ドミニク・サンダ)の母娘、そして妊娠したままフランソワに捨てられたヴィオレットと母親に看て取れる。そして最後のヴィオレットの母娘以外は、母親が元は裕福な、或いは身分が高かったことを思わせるように描かれていることが共通項である。それは経済的に困窮しているのに、自分の宝石を売りに行く前に美容院に行く心配をしているエムリ―夫人の行動や、カサールを夕食に招いた際の食器類の豪華さを見ると、とても困窮した庶民の生活とは思えない。これは同じダニエル・ダリューが『ロシュフォールの恋人たち』(Les Demoiselles de Rochefort,1967)で演じた双子の娘(演:カトリーヌ・ドヌーヴとドヌーヴの実姉フランソワ―ズ・ドルレアック)の母親役にも通じるものがある。
 
その他ドゥミーの後年の作品『モン・パリ』(L’Événement le plus important depuis que l’homme a marché sur la lune,1973)は、男性が妊娠する?というコメディーなのだが、主人公マルコ(演 :マルチェロ・マストロヤンニ)が悪阻のような症状を起こした時に、内縁の妻イレーヌ(演 :カトリーヌ・ドヌーヴ)との間で交わされる会話「重病なんでしょ?ー妊娠しちまった」は、『シェルブールの雨傘』の中でエムリー夫人がジュヌヴィエーヴを問い詰めた時の台詞《C’est grave, n’est-ce pas ?-Je suis enceinte.》がそっくりそのまま使われている。

 この他にも見る度に新たな発見がある『シェルブールの雨傘』は、私のフランス語学習の原点であると同時に、素晴らしい映画音楽作家ミシェル・ルグランと出会わせてくれた掛け替えのない作品である。これからもまた思い出したこと、新たに気が付いたことがあればここに書き留めていきたいと思う。
 
 
 

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