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「世界のオザワ」逝く

  世界的指揮者である小澤征爾さんの訃報が齎された。この10数年は体調を崩されることが多く、もうあのエネルギッシュな指揮ぶりを見ることは叶わないのかと危惧していた。事実入院、手術の報に続き、指揮のキャンセル・休演のニュースにも慣れてしまっていたし、松本のフェスティバルで同世代のシャルル・デュトワに代役を依頼して、そのデュトワが大曲を振り切ったのを見て、何とも言えない寂しさを感じてしまった。年齢的にも90に手が届くような歳を迎え、そうなる日が近いことは何となく覚悟はしていたが、実際に訃報に接した時の喪失感は想像以上に大きかった。
 
  私が生まれて初めて生のプロオーケストラの演奏を聴いたのは、小澤さん指揮の分裂前の日本フィルだった。日本武道館で催されたクリスマスコンサートで、オーケストラは日本フィルと東京交響楽団の合同演奏、指揮は小澤さんと山本直純さん。当時テレビマンユニオン制作で人気を博したTV番組「オーケストラがやって来た」の名コンビだった。芸大出身の山本直純さんと、桐朋学園出身の小澤征爾さんは別の学校出身でありながら、同じ斎藤秀雄先生の門下生であり、斎藤先生の「まず型に入れ、そして型から出よ」という言葉を体現するような表出の仕方をした人たちだったと言えよう。
 
  若い頃にN響事件を経験し、日本の楽壇を意図的に避けた小澤さんはその後トロント、サンフランシスコ、ボストンと北米大陸のオケで首席指揮者や音楽監督を歴任し、同時にウィーンやベルリンやパリで客演を重ねて世界のトップクラスの指揮者に駆け上って行った。そして小澤さんの指揮振りを、彼の母国日本のファンは偶に帰国した際の日本フィル、および分裂後の新日本フィルの定期演奏会で年に数回しか耳にすることのできない年月を重ねるしかなかった。まだ小学生だった私にはその間の事情は良く解っていなかったが、めったに見ることの出来ない世界的指揮者の演奏会を生で見られるということに興奮を覚えて、件のクリスマスコンサートを聴きに日本武道館に足を運んだことを良く覚えている。何よりも海外で成功を納めた若き指揮者という肩書と、その身体全身を使ったエネルギッシュな指揮ぶりは単純に言って格好良かったのだ。小澤さんの音楽論やバトンテクニックの詳細について理解出来るようになるには、なお数年が必要だった。
 
  1984年に斎藤秀雄先生の没後10年を記念した桐朋出身者によるオーケストラの演奏会をきっかけに誕生した「サイトウキネンオーケストラ」と、そのオケを中心にして後に誕生した松本のフェスティバルによって、小澤征爾さんの名前は日本でも毎年耳にするようになったし、彼らの残した音源はCDとなって多くのクラシックファンの耳に届いた。私も1993年のフェスティバルのチケット争奪戦に勝って、特急あずさに乗って松本までシューベルトの「未完成」とベートーヴェンの7番のプログラムを聴きに行った。常設のオケにはない一期一会の集中力と爆発力を、短期間の練習で聴衆にぶつけてくる他に類を見ない演奏会に立ち会え、言葉に出来ないほどの音楽的感動を貰った。
 
  その後は、小澤さんがウイーンフィルを率いて行った日本公演や、手兵のボストン響との日本公演なども、当時割と貰っていた奨学金のおかげでチケット購入出来て、生で耳にすることが出来た。松本のフェスティバルも軌道に乗って、毎年多くの聴衆を惹きつけるイベントであるだけでなく、次代の音楽界を担う若き音楽家の学習の場としても発展していったことは偏に小澤さんの功績だと言って良いだろう。
 

小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラの「ブラームス交響曲1番」のCD

  
  2000年代に入ると小澤さんの過酷な日程がご自身の体調に落とす影が大きくなっていき、入院、手術の報を耳にするようなことも多くなっていった。そんな中私が至近距離で小澤征爾さんに接したエピソードが一つある。2008年の夏、演劇集団円の当時存在した田原町アトリエでの公演で、ストリンドベリの「死の舞踏」という戯曲を見に行った。主演は橋爪功さんで、なんとその公演に小澤征爾さんが奥様と、ご長男で俳優の小澤征悦さんとご一緒に3人で観劇に来られていたのだ。小澤征悦さんは後に橋爪功さんとTVドラマ「ハンチョウ」で共演されているので、元々ご親交があったと思われる。幕間でトイレに行った時、全くの偶然だったのだが、何と小澤征爾さんと並んで連れションする形になったのだ。プライベートでの観劇ということに慮って、敢えてお声掛けすることは控えたが、あの子供の頃から憧れた「世界のオザワ」と「連れション」したという貴重な体験は私にとって相当な喜びであり自慢でもあるのだ。

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