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文法は会話に必要か?

 大学で外国語(フランス語)の授業をしていると、どうしても文法的な説明をしなければならないことがあります。良く「会話する上で、文法なんかどうでも良い」と仰る方がいますが、それは表面的に半分間違っていますし、究極的には完全に間違っているとしか言えません。
 
 会話するということが、どの程度の内容に関わるのかにもよりますが、恐らく初対面の挨拶とか自己紹介、日常的な買い物程度の表現であれば、フレーズを丸暗記するだけで何かを言うことが出来ますから、それはどんな言語であっても文法知識の必要はないのかも知れません。その点で、「然程複雑なことを話す必要がなければ、文法なんて関係ない」と言い切ることが半分は正しいのでしょう。しかしその会話の内容は1つステップを上げただけでもう文法的知識がないと続けられなくなってしまいます。会話というのは一方的なスピーチではありませんから、当然相手の質問に対し、答えを求められることがあり、更にこちらから相手に質問をぶつける場合も出てきます。そのような言葉のやり取りをする場合、相手の反応を全て予め想定することは、不可能ではありませんが余りに膨大な量に及ぶため、そんな無駄な記憶をするくらいなら、ある程度の文法的知識や語彙力を使った方がずっと合理的だと解る筈です。
 
 簡単な例を出してみましょう。あなたの国籍を尋ねられた場合、それに対する国籍を答える会話は容易に記憶できますが、仮に相手がその国が世界のどこにあるかを知らなかった場合、「その国はどこにあるのか?」と想定外の質問をしてきます。国の位置関係を言う文法知識がなければそれには答えられませんし、仮に答えたとして、それが相手の国からどれくらい離れているのか、そこに行くのに飛行機だとどのくらい時間がかかるのかなどと、質問はどんどん発展していく可能性もありますから、暗記で対応出来る範囲は極めて僅かに過ぎない事が良く解ります。だからこそ、ちゃんと会話をするには文法知識と語彙力が大事だと常に学生には伝えていますが、それでも文法の講義というもの自体は退屈で、「どう考えても実践的だとは思えない」と言われてしまい、余り評判は芳しくありません。教える側にもかなりのジレンマがあり常にこの状況を打開する方法を考えていたのですが、それはある日突然授業の中で起こりました。それは学生の「何故?」という質問がきっかけでした。
 
「先生、何故フランス語にはこんなに文法項目があるんですか?」これは意外な問いかけでした。「いや日本語にも文法あるでしょ?」「え?そんなの知らないけど、日本語喋れるし・・・」
これはよく言われることで、母国語の文法に関して意外と知らない方が多いのではないでしょうか?実は日本語の文法に関して、学校で正式に教わるのは中学生になってからです。「国文法」というテキストを使って、国語の授業の中で「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」という動詞や形容詞・形容動詞の活用などを教わった記憶があります。その上で、文法に強く興味を持ったという人がそんなに多数派になっていないような気がするのは、ひとえに「文法を知らなくても、喋れるもん」という一事に尽きるように思います。かく言う私も、中学生の頃は「サ行変格活用なんて言葉知らなくても日本語喋れてるし」と毒づいていた一人です。後になって、文法知識があった方がより良く表現出来ると知るようになりましたが、それは偶々研究職を目指して大学院に進学したり、その過程で研究論文を執筆するようになったり、更に教壇に立って教えるようになったことが大きく影響しています。
 
 そして冒頭の話にようやく戻って来るのですが、外国語学習に文法習得が欠かせないことを、如何にして学生に納得して貰うかという大命題にぶち当たる訳です。教科書の目次を見ていても、段階的に口頭表現を学びつつ、その中で、必ず何かしらの文法項目の学習がセットになっています。たとえば自己紹介をする時、相手の主語と、自分の主語が何であるのかを先ず知らなくてはなりませんし、その時どの動詞を用いるのかによって表現できる内容が変わってきます。国籍や職業を言う場合には、自分の性別によって形が変わるということも知っておかなければなりません。なんだ結局覚えなきゃダメなんじゃないかということになりそうなんですが、私は「何故?」という学生の問いに、逆に「何故こういうことを人間は発話するようになったのだろう?」と切り返していました。それは自分に対する問いかけでもあったのです。それ以降文法項目を教える際に、一つ一つの項目に関してどうして人間はこういうことを発話するのかと考え、それを授業で学生にも考えさせるような話をするようになりました。頭ごなしに「とにかく覚えなさい」というのは余りに不毛なので、少なくとも発話動機が納得出来れば、その文法知識は獲得しようと思えるのではないかと考えたからです。
 
 例えば疑問文の作り方を説明する時は、人は何故疑問を発するのか?→分からないことがあって、それを知りたいと思うから。という説明を先ずします。つまり、分からないことがあるだけでは、「知らなくても良い」と思う人に疑問文は必要ないのです。分らないことがあって、それを知りたいと思うからこそ、初めて疑問を発するのだと考える。こう思うと、発話行為そのものの重要性が再認識されるし、疑問を発する人間の心理状態を理解するようになるのです。ちょっと遠回りな道筋のようにも思えますし、こじつけだと思われる方も多いでしょう。しかしこれこそ究極の言語学習法ではないかと私は思っています。
 
 因みに先日「比較級と最上級」の説明を或る授業でしましたが、その時のテーマは「人間は何故比較をしたり、ある集団での1番を決めたがるのだろうか?」というものでした。そういうことを、例えば心理学的に専門的に考えたら、それはそれで相当な膨大なテーマになってしまいそうですが、少なくともそういう視点を以って言語化する行為を考えるのは、発話・表現行為には極めて大切なことだと信じるからです。どうですか?こう考えると言いたいことを言語化する行為というのは、すごく深い行為だと言えますし、他者と言葉を交わすという行為自体が、言語化されて表に出てきたこと以外に無数のファクターを瞬時に総動員している行為だと言え、それに対する興味は尽きないのです。

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