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2024年8月18日礼拝説教「悔い改めとバプテスマ」マタイ3:1~12 [1]

聖書箇所 マタイ3:1~12(本日はとくに1~10)
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

参考聖句
詩篇51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。

参考聖句
ローマ7:19~20
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号  


説教アウトライン      
序 バプテスマの意味
① 信仰に強調される悔い改め
② 悔い改めからバプテスマへ
③ 実を結ばせる悔い改め
まとめ

悔い改めとバプテスマ
マタイ3:1-12[1]

 教会の大切な営みとして、バプテスマがあります。「洗礼」と呼ばれることが多いのですが、これは誤訳です。本来の意味は「人や物体が水中に一時すっかり沈められ、そこから再び引き上げられる有様」「水に浸す・漬けられる」という意味です。なので他の訳語(「浸礼」)を当てることもありますが、音訳でバプテスマというほうがもっぱらです。
 本日の箇所は〈バプテスマを授ける人〉であるヨハネが現れました、というところから始まります。昨年のクリスマス・シーズンにはマタイ福音書の1-2章を礼拝で学びました。その続きとしてこの福音書の3-4章を今週から読んでいきます。そして今日は「悔い改めとバプテスマ」という題を付けましたが、皆さんと大切なことを学びます。
 一言祈りましょう。「愛する神。私たちの礼拝と交わりの中心におられる救い主の足跡を今日の箇所から学び始めます。私たちの救いのたしかさを説教者が正しく説くことができ、愛をもって語ることができるように助けてください。また、私たちの耳と心を開いてください。私たちの聴きます神の恵みが、私たちの心を変え、周囲を変え、世界を変える慰めとなることを、私たちは信じます。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(信仰に強調される悔い改め)
 3:1-4〈そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった〉。
 荒野で叫ぶヨハネという人物を抜きにして、福音書は始まりません。そして福音を世に伝えた主イエスを最初に正しく紹介するのは、近所で育った幼なじみでも、大工仕事をよく頼む人でもありません。主が礼拝をささげていたナザレ村の会堂管理者でもなければ、お腹を痛めた母のマリアでさえないのです。
 このヨハネは、主イエスの親戚でもありますが(ルカ1:36)、親戚だから主を紹介しているのではありません。年齢的にはヨハネが半年ほど上ですが、同世代だから紹介しているわけでもありません。人間的なつながりではなくて、神ご自身が、はっきりとヨハネという青年に主の道を用意する使命を与えたのです。
 ヨハネは、旧約聖書の伝統からいえば、神のことばを預かって語る預言者の系譜に連なる人です。服装も食べ物も贅沢な生活から極端に離れていることを表わしています。しかし、同時に〈らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め〉るのは、あの預言者エリヤに似せていることがわかります(Ⅱ列王記1:8)。
 そして何よりヨハネはメッセージ(伝えたいこと)を持っていました。〈「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」〉。これは〈ユダヤの荒野〉から始まったアナウンスでしたが、すべての時代の、すべての場所に住む人が聴くべき、神からのことばでした。
 そして〈悔い改め〉とは何かといえば、特定の悪事を悔いたり改めたりすることが、本来の意味ではないのです。そうではなく180度逆転して、頭と心を、神のほうを向けるということがもともとの意味です。〈悔い改め〉ではなく〈回心〉と訳している日本語訳聖書もあるほどです。ヨハネは「心と頭を神に向けなさい」と言ったのです。
 なぜでしょうか。私たち人間は、神によって造られ、生かされていますが、その人生をスタートしたときから神とは離れているからです。旧約聖書の詩篇51:5には〈私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました〉というダビデの告白があります。それぞれの人生において、長ければ長いほど私たちは多くの罪を犯しますが、その根本には(言ってみれば)大文字の「罪」があるのです。
 この大文字の「罪」に気がつく必要があります。そしてこの大文字の「罪」に背を向けるために、神に心と頭を向けなければなりません。これが聖書でいう〈悔い改め〉です。ほんとうの信仰の始まりは〈悔い改め(回心)〉であると言ってもいいほどです。

(悔い改めからバプテスマへ)
 そのように私たちの信仰の大切な部分に〈悔い改め〉があります。多くの人がバプテスマのヨハネの〈悔い改め〉の〈教え〉を聴いて、応答しました。3:5-6〈そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた〉。
 ヨルダン川というのはユダヤを代表する川です。パレスティナを南北に流れます。水源はヘルモン山の麓(海抜520m)から海面下200mのガリラヤ湖に注ぎ、その南端から再び南下。100㎞強の直線距離を蛇行して進み、やがて海面下400mの死海に至ります。ヨハネがバプテスマを授けていたのは、死海に近い下流のほうです。
 バプテスマは、いまもそうですが、基本的に生涯一回限りのものです。つまりそれは先ほど言いました。人間が生まれながらに神から離れて背いてしまっている、先ほど流に言えば大文字の「罪」から、まことの神へと逆転することを象徴しています。何度も受ける必要はないのです。
 しかし興味深いことにヨハネからバプテスマを受けた人々は〈自分の罪を告白し〉ていました。この〈自分の罪〉には、根源的なところで神を信じないという大文字の「罪」も含まれていたかもしれませんが、過去にこんな悪いことをした、いまもひどい悪事を続けているが止めたい、そういう個別の罪も入っていたに違いありません。
 実は、私たちは、霊的に鈍いこともありますが、何よりも心が頑ななので、人の罪は認めても〈自分の罪〉を認めたがらないのです。今日、私が言っております大文字の「罪」というのは原罪original sinと言ったほうが思い至りやすいかもしれません。しかし気をつけなければならないのは大文字の「罪」とか原罪というのは、罪というものが観念的、抽象的になって受けとめられて終わりということになりやすいのです。
 ですから現代の教会でも、バプテスマ志願者が与えられたとき、大文字の「罪」を確認するだけでなく「どうしてあなたは自分が罪人だとわかりましたか」と尋ねます。大文字ではないという意味で、言ってみれば小文字の「罪」ですが、その人の人生において引っかかりのある具体的な出来事などを思い出してもらいます。それを人前に言っても、言わなくてもかまいません。ただ大文字の「罪」とリンクしてもらいたいのです。
 バプテスマは、従来のきよめの儀式と違って、一回性のものでした。それは、人類の根源的な問題とその解決はただひとつ。人が、大文字の「罪」に背を向けて、神に帰るということでした。しかし心の鈍い私たちは、たくさんの小文字の「罪」を思い出し、自分が大文字の「罪」に支配されていることを知って、認め、告白することが大事です。
 主が死んで復活したあと、教会の指導者となった使徒パウロは、ローマの教会に出した手紙でこう言っています。ローマ7:19-20〈私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です〉。
 こんな言い方もできるでしょうか。私たちは地上において具体的な小文字の「罪」との戦いはあるのです。ときには昔の過ちで苦い記憶がよみがえるかもしれません。しかしイエス・キリストの十字架の贖いは、私たちの大文字の「罪」はもちろん、あらゆる小文字の「罪」も帳消しにしてくださったのです。私たちは、抜本的で根源的な罪においても、有象無象(うぞうむぞう)の諸々の罪においても、確実な赦しときよめを得ているのです。
 これが、3:6に記録されているように、たった一回のバプテスマのなかで〈自分の罪〉が告白された意味でしょう。私たちは、ヨハネのバプテスマよりももっと意義深く確実な、イエス・キリストの名によるバプテスマを受けているわけですが、私たちもまた、大文字の「罪」と小文字の「罪」の両方の罪を意識し、また告白しております。

(実を結ばせる悔い改め)
 そんななかでバプテスマのヨハネに会いに、あるいは新改訳でもそう訳されているように〈バプテスマを受けに〉来たのかもしれませんが〈大勢のパリサイ人やサドカイ人〉がヨハネのところへやって来ます。
 3:7-8〈ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。3:8それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい〉。
 パリサイ人というのは、旧約聖書の掟を一字一句守って、神の顧みをいただこうとしていた、グループの人たちです。しかし、ヨハネに会いに行こうと考えました。サドカイ人は、神殿を中心に活動し、旧約聖書にある犠牲の礼拝を大事に考える、グループです。しかし「ヨハネからのバプテスマも受けておこう」と考えたのかもしれません。
 しかしヨハネは、こんな強いことばで、返しました。〈まむしの子孫たち〉。パリサイ人もサドカイ人もユダヤ人で、自分たちは神の選民という誇りがあったと思います。それなのに〈毒蛇の子〉と言われます。悪魔の子孫とさえ言われたのかもしれません。
 さらにヨハネはこう叫びます。3:9〈あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです〉。
 このマタイの福音書は、とくにユダヤ人信徒のために書かれた(編まれた)と言われています。1章の最初に救い主の系図が載ったように、ユダヤ人は、神の選民であることを誇りに思っていました。しかしそんな血筋は、神の救いのためには、それほど役には立たないし、誇りにするほどではないとヨハネは言っているのです。
 それこそ3:10でヨハネが続けたとおり、ユダヤ人であっても、来たるべき神の裁きの例外ではないのです。3:10〈斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます〉。
 ユダヤ人であっても自動的に救われないとしたら、異邦人は、もっと救いから遠いことになります。しかし、神は真実です。神による罪からの救い、そして来たるべき神の裁きからの救い、その確信はどこから来るでしょうか。ヨハネはちゃんと語っています。
 そのあたりも、ヨハネの時代と、私たちの時代も同じです。ヨハネは8節でこう言いました。〈それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい〉。そして10節で〈すべて切り倒されて、火に投げ込まれ〉るのは〈良い実を結ばない木〉だと告げられています。
 どうしたら、私たちは、よいのでしょうか。いえ、どうしたらというより、神はどんなことをしてくださるのでしょうか。
 木は実によって判断されます。これは主イエスも同じように言っています(マタイ7:15-20)。そういう意味では〈悔い改めにふさわしい実〉を結べば、私たちは悔い改めたということになるでしょう。
 最初に申しましたように〈悔い改め〉とは、過去の悪事を悔いるとか、今後の行いを改めるとかが、本質ではありません。〈悔い改め〉とは〈回心〉のことであって、罪に背を向ける代わりに私たちは神に顔を向けるのです。そして神と交わる命が回復します。それこそが永遠のいのちであって、聖霊によって神の愛が注がれます(ローマ5:5)。
 つまり、どうなのでしょう。信仰によって〈良い実を結ぶ〉とは、自分ががんばって花咲き、実を結ぶということではないのです。目には見えませんが、罪に背を向けて神に心と頭を向けたのだから、そこから生まれて始まった神の恵みを信じること。
キリストの恵みの働きに信頼して、神を愛し、人を愛すること(マタイ22:35-40)。教会においては、キリストの愛に倣って互いに愛し合うことです(ヨハネ13:34)。

(まとめ)
 本日は、イエス・キリストの先駆者であり紹介者となった、バプテスマのヨハネの働きとことばから、私たちにもたらされた救いについて学びました。あえて3つのポイントを上げるとすれば、私たちの救いとは、こういうことです。
 救いとは、第一に、悔い改めることです。悔い改めとは、神に背を向け、罪のほうを向いていた私たちが逆転して、罪に背を向け、神のほうを向くことです。
 第二に、救いとは、救いのしるしやあかしとしてバプテスマを受けるように、目に見えるかたちで表現することが重要になります。バプテスマとは、公式の信仰告白です。バプテスマのヨハネから始まりましたが、21世紀前半の現在にも、教会で受け継がれているものです。
 第三に、救いとは、結果的に、救いや悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。それは、神との霊的交わりの継続によって、それこそ「自然に」成長し、信仰者は実を結ぶことによって、多くの人たちへのあかしとなるのです。
 一言祈りましょう。
「神様。教会が、バプテスマのヨハネからイエス・キリストをとおして受け継いだものに、バプテスマがあります。すべての水によるバプテスマに真実な悔い改めが常にあって、悔い改めにふさわしい実がいつも期待できますように。私たちに希望の忍耐をお与えくださり、信仰が強くされ、私たちがいよいよ愛の人、愛の交わりに生きる者となれますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。


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