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5枚目 筋肉少女帯「SISTER STRAWBERRY」(1988年)

 この時代、パンクとメタルは水と油のような関係で、パンクがメタル化しようものなら、ものすごい非難を浴びました。ラフィン・ノーズ然り、GASTUNK然り。でも、アーティスト側から見れば、そんなことを気にしてる人はあまりいなかったような気もしますが。

 メジャー期の筋肉少女帯が期せずして成し遂げたものは、そんなナゴム的なパンク・ルーツのインディー・ロックとメタルを融合させたことでした。そして、それが筋少の音楽を翻訳する形で、オーケンの世界観をより浮かび上がらせたのです。

 インディーのナゴム時代までは、ヴォーカルの大槻ケンヂ(当時は大月モヨコ)が白塗りをしたりとパフォーマンス的な要素が強かったり、オーケンが影響を受けたとするじゃがたらのようなパンクからファンクを横断する歪な音楽性を持っていましたが、メジャーデビュー作「仏陀L」でギターの関口博史とドラムスの美濃介が脱退すると、テクニシャンかつヘヴィなビートを叩き出すドラマー、太田明が加入。また、サポート・ギタリストとして、ジェット・フィンガーの異名を取る元BRONXの横関敦が参加し、クラシック出身の鍵盤奏者、三柴江戸蔵も含め、バンドはテクニシャン集団に変貌します。

 そんな過渡期に作られたミニアルバムで、ほとんどがインディー時代のリメイクにも関わらずこれが重要作なのは、これまでの活動の集大成的作品でありながら、これ以降の音楽性や方法論をここで確立した作品であること。ここで聴ける音楽が、この時期の日本のインディー・ロックの縮図のような多様性を高度な次元で融合した作品であることでしょう。

 オーケンは筋少を、本当はじゃがたらのようなファンクバンドにしたかったらしいのですが、それが中途半端な形で定着したのがインディー時代の筋少だと思います。それを音楽的に整理して、サーカスのようなバカテクで彩ったのがこのアルバムです。ハードロックからパンク、プログレ、クラシック、ラテン、演劇的要素までを(恐らく意識することなく)ミックスし、その上でオーケンが叫び、語る。この時期の日本のインディーズには、しっかりした音楽的な素養をバックに作られた音楽ももちろんありましたが、素人の思いつきと勢いだけで作られたものも多かった。後者の急先鋒だった筋少が"技術"を得たことによって、その両者を軽く超えるすごい作品が生まれたわけです。

 特に横関のサポートを超えた活躍ぶりが光ります。「マタンゴ」での横関の壮絶なフルピッキングの早弾きソロや「キノコパワー」での江戸蔵と横関のソロ合戦は聴きモノです。「マタンゴ」はアレンジも壮絶で、約3分半の中によくこれだけのものを突っ込んだなと思うほどの多様性と、キメどころのアイデア、そして凄まじいハイテンションの演奏。もはやメタル云々とかそんなことはどうでも良くなってしまう別次元の演奏。これには恐らく演奏しているプレーヤー自身が音楽自体の面白さに刺激され、エスカレートしていったのではないかと想像します。そして、オーケンの世界観を見事にサポートしている点も特筆モノでしょう。

 その結果、オーケンの凄さがここまででもっともよく出た作品になったと思います。パンクを超えたアヴァンギャルドといっていいほどの叫び。語りの上手さ。江戸川乱歩に影響を受けた歌詞やストーリー作りの裏には強力な厭世観が横たわっています。「夜歩く」や「いくじなし」は歌よりも語りのバックに演奏を付けたようなもので、歌がヘタクソと自称するオーケンの存在感の大きさは、このストーリーテリングの才能によるところが大きいでしょう。オーケンの歌詞には時期や作品を飛び越えて同じモチーフが登場します。例えば、「黒猫」「アンテナ」「電波」「サーカス」「死んだ恋人」etc。多くの作品が同じ世界を共有し、地続きになっていると考えられます。これがよりハッキリ現れるのが、次作の「サーカス団パノラマ島へ帰る」です。

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