見出し画像

著書紹介 『カミュを追って―地の果ての記憶』

カミュを追ってカバー

「カミュを追ってー地の果ての記憶」(一粒書房)2015年3月10日

この本は、「カミュを追ってー地の果ての記憶」「塀の中の君へ」の2部作で、題名にもなっている前者は、私が私淑していたアルベール・カミュの生まれ故郷のアルジェ在勤時の思い出を追想した、物語風の作品で、その初めは次のようなもので、思い出の大切さを描いた作品です。

「《初めに》
「人生とは、人がただ単に生きたということではなく、生きた長さに値する思い出があるかどうかということであり、かつ、そうした思い出をどのように呼び起こすか次第のものである」La vie n’est pas ce qu’on a vécu, mais de dont on se souvient et comment on s’en souvient.
この言葉は、コロンビア出身で『百年の孤独』の作者、ガブリエル・ガルシア=マルケスGabriel Garcia Marquezの自叙伝(仏語版)『Vivre pour la raconter(そのことを語るために)』の巻頭にある言葉です。題名のla(そのこと)が何を指しているか明らかではありませんが、代名詞として女性形のlaが使われていることからも、また、本の内容からも人生la vieを語ることだと推測できます。日本語訳は私の意訳ですが、確かに、思い出次第で、生きた時間の濃縮度は変わるでしょうし、感謝し、満足してあの世に逝くか、それとも恨み、悲しみを抱いて逝くかの秤は思い出次第だともいえるでしょう。
ガルシア=マルケスは、二0一四年四月十七日、八十七歳で亡くなりましたが、外国の文学作品を、特にあまり馴染みのない国の作品を味わうには、作品の背後にあるその国の歴史や文化を事前に知っておくことが不可欠はないかと思いますし、ガルシア=マルケスの作品の場合には、出生地のコロンビアはもとより、中南米の歴史、文化をある程度は事前に調べた上で読むべきではないかと思います。私は無謀にもそうした予備知識もなく、フランス語版の『Cent ans de solitude 百年の孤独』も読みましたが、スペイン語と同じラテン語の流れをくむフランス語版とはいえ、全くお手上げでした。ノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスは、記憶を語ることを重視した作家といわれますが、冒頭に引用した言葉は、一人の人間として、また、言葉の魔術師として、どのような心構えで作品を、つまり人生を描こうと試みていたかを象徴的に物語る言葉でもありましょう。」

他方、後者の「塀の中の君へ」は、ある事件に係わった元同僚宛に書いた手紙からなるような作品ですが、自らの来し方を振り返りながら、何故に前代未聞と言われた事件が起こってしまったのか、そして、その事件からどう生きるかを模索し、塀の中の君にそれを伝えるという、書簡文学と言えば言えなくもない作品です。なお、帯に、「人は人生で出逢うべき人には必ず出逢う、それも一瞬早からず、一瞬遅からずと、賢人は諭す。悲運も起こるべくして起こるのだろうか。人はそれぞれの宿縁を如何に耐え忍んでいくのだろうか?ノーベル文学書作家カミュが、そして語り部杢兵衛が、人生の暗夜行路を優しく照らしている。是非ハンカチを手本に老いてハンカチをご用意ください」とはありますが、それはやや誇張しすぎかもしれません。お読みください」

そのはじめは次のようなものです。

「〈はじめに〉
「この数か月パリではあまりに多くの事件が起こったので、たかが一つの死など長く覚えてはいられない。時の流れが速ければ速いほど、人間の記憶は短くなる。数日、数週たつうち、マリー・アントワネットという王妃が首をはねられ埋葬された、ということなどパリでは完全に忘れ去れる」シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』
ルイ十六世の王妃マリー・アントワネットが断頭台の露となって消えたのは、フランス革命期の一七九三年十月十六日。日本は江戸時代で、寛政の三奇人と称される勤王家の高山彦九郎が亡くなった年。今から二百年以上も昔のパリのことではありますが、この時代でも、「人の噂も七十五日」という訳で、王妃の死ですら忘却のかなたに消えゆくのが世の習いです。ましてや、今日のように情報が溢れる時代では、私がこの本で語る出来事は、民族学者柳田國男(一八七五~一九六二)の民話を聞くようなことかもしれません。まあ、自称秋田のナマハゲこと、外務省の語り部杢兵衛の、なんともご愁傷様としかいいようのない、泣くに泣けない悲哀噺と、ソファーに寝転んで、ゆったりと読んでいただけたらと思います。」

出版社 : 一粒書房
発売日 : 2015/3/1
単行本 : 199ページ
ISBN-13 : 978-4864313728

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?