見出し画像

令和の徒然 (7) 「言語のメカニズム考」

 外務省で働いて、お給金を頂戴しておりましたが、外国語(英語とフランス語)が多少できるというのが、功を奏したわけですが、そうはいっても基になる母語である日本語が弱い以上、母語以上には上達しなかった、していないのが現状。退職した今も、毎日、ラジオ体操のように、フランスの新聞、ル・モンドを読んではいますが、わからない単語に出会いつつも、なかなか覚えられないのは、使う機会がないから、そして、何よりも、生きるために絶対に必要だと思っていないから覚えないのでしょう。
 外務省での仕事環境もありまして、フランス語を学びながら、言語についても、コミュニケーションという観点から多少学びました。読んだ本では、(日本語に限定した著書は別として)田中克彦「言語の思想」「法廷にたつ言語」(岩波現代文庫)、丸山圭三郎「言葉とは何か」(ちくま学芸文庫)、(言葉と無意識」(講談社現代新書)、ディクソン著大角翆訳「言語の興亡」(岩波新書)、デイヴィッド・クリスタル著・斎藤兆史・三谷裕美訳「消滅する言語」(中公新書)、黒田龍之助「はじめての言語学」(講談社現代新書)、川本茂雄「ことばとイメージ」、ウイークリー著寺澤芳雄・出淵博訳「ことばのロマンス」(岩波文庫)、エドワード・サピア著安藤貞雄訳「言語」(岩波文庫)、由良君美「言語文化のフロンティア」(講談社学術文庫)、そして以前、ご案内した小川洋子・岡ノ谷一夫「言葉の誕生を科学する」(河出文庫)、米原万理「言葉を育てる」(ちくま文庫)、加藤重広「言語学講座」(ちくま新書)等。また、今井むつみ「学びとは何か」(岩波新書)にも、言語に関して、大変興味深いことが書かれております(なお、今井先生には、「ことばと思考」(岩波新書)があります、念のため)。
 ただ、読書して学ぶ事は確かに多いのですが、より正確に、より深い理解を得るためには、著者の方と直接話すことがどうも不可欠なような気がしております。幸い、加藤先生とはメールで、また、今井先生にはお会いしたこともありますが、人間の言葉の発信力は目の前の具体的な存在があってこそ、意味と力を持つものではないかと思う次第です。
 本居宣長の「言霊」ではありませんが、言語のメカニズムというのは、機械のように、デジタル化が本当に出来るのか、それとも、安部公房が言うように、アナログとデジタルの融合によるものなのか。サピア(1842-1914)著西川正身編訳「新編 悪魔の辞書」(岩波文庫、「解説」は詩人の長田弘さんが書かれており、詩的な、手元において損のない本だと私は思います)では、「言語とはわれわれがそれを使って、他人の宝物の番をしている蛇たちをうまうまとてなずけてしまう音楽」とありますので、番人である蛇(象徴的存在、神の使いとか、いろいろな意味あり)を懐柔するにはアナログである音楽性が言葉にはないといけないようではあります(もっとも宝物が何かはわかりませんが)。
 ちなみに、「悪魔の辞書」によれば、「人間とは自分の心に描くおのれの姿に、恍惚として眺め入っているために、当然あるべきおのれの姿が目に入らない動物。その主要な仕事は、他の動物たちのほかに、おのれの属する種族を絶滅しようとするにあるにもかかわらず、人間なる種族は、とめどもなく、しかも急速に増加して行き、地球上、棲息可能な場所ならいかなる場所にも、カナダさえも、はびこるまでに至っている」と。カナダは、そうなんですねえ(笑い)。
 以下、最近読んだ永田和宏先生の言葉と安部公房の言葉を備忘録的に、記しておきます。

永田和宏「知の体力」(新潮新書)なお、この「知の体力」のⅢ部「思考の足場をどうつくるか」を読むと、本書は確かに全体的には知あり方への思索が書かれているのですが、本にしたかった最大の動機は、亡くなられた奥様への思いを表現したかったのではないかと。つまり、「ひたすら聞き続ける存在になれなかった」後悔の念を。
 彼は「愛する人を失ったとき、失恋でも、死による別れでも、それが痛切な痛みとして堪えるのは、愛の対象を失っただけではなく、その相手の前で輝いていた自分を失ったからでもある。私は2010年に40年連れ添った妻を失った。彼女の前で自分がどんなに自然に無邪気に輝いていたかを、今ごろになって痛切に感じている」と。

「言葉で表すとは、対象を取り出して、当てはまる言葉で振り分ける、すなわち分節化する作業である。外界の無限の多様性を、有限の言語によって切り分けるという作業なのである」
「人は自分の勘定をうまく言い表せない時、言葉のデジタル性を痛感する。言葉と言葉の間にあるはずのもっと適切な表現をめぐって苦闘する。感情を含めたアナログ世界をデジタル表現に移し替えようとするのが、詩歌や文学における言語表現であるとも言える」

安部公房「内なる辺境/都市への回路」(中公文庫、2019年初版)の「都市への回廊」
「アナログ的なものと、デジタル的なものは、相互に補完し合って、われわれは現実認識しているわけで、どっちが欠けても困る。しかし明らかに機能としては違う機能なんだね。デジタル時計を見る時には、おそらく左の脳で見て、アナログ時計を見るときには右の脳で見ているのだろう。言葉というのは完全にデジタル的なもので、左の脳を使っている。たとえば左の脳が故障して、右の脳だけで言葉を聞くとしたら、音としては識別できても意味がなくなる。意味を構成するのは、左のデジタルなんだ。右の脳では、坂道を見て、直感的にどのくらいの傾斜かを見分ける。自分はここで滑るか滑らないか、かかとがゴムだったらいけるけど皮だったら滑る、というような感覚は、アナログなんだ。アナログの脳がなくても、デジタルの脳だけになっていたら、坂道を見ても滑るかわからない。分度器を持っていって測って、何度だとあぶないという認識は正確に出る。デジタルとアナログの脳は。どちらも重要なものだけど、機能がまったく違う。音楽というのは、完全にアナログであって、右の脳で聞いているらしい。文学は完全にデジタルで、左の脳で読んでる。この右の脳と左の脳には、協力と反発がある。ゲーテはたしか音楽に対して非常に警戒心を持っていて、「あれは良心を惑わすものである」というようなことを言っている。その偏見はデジタルとアナログの戦いでもあるわけだ。突っ込んで訊ねると、ほとんどの文学者が必ずと言っていいくらい、音楽に対してコンプレックスを持っている。たいてい、音楽に対して一言いいたがるだろう。言葉を専門的に操作している人間ほど、音楽に対して優越感と劣等感が不思議に強いんだね。ところが、音楽をやっている奴も又同じで、文学者に対して変な劣等感がある。」

同 「内的亡命の文学」
「文学というものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、自己矛盾の仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナログに到達するための努力なんだね。そうすると、文学はものすごく苦しい作業でなければならない。だから、小説家は音楽家に非常にねたみを感じるんだよ。そのねたみの本質はなにかというと、音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小説家は苦しい廻り道をしなければならないからだ。ところが、音楽まで含めて、日本人がとかくデジタル化しやすい傾向があったから、文学がデジタルをみずから破棄する努力というものはむだになる。デジタルで止まってしまうんだ。だからかりに日本で、きわめてアナログ的なものが氾濫しはじめているとしたら、それは僕らの文学を疎外するどころか、むしろ非常に望ましい状況であると思う。ところが、氾濫しているのが、疑似アナログなんだ。われわれのいままで生い育った、あまりにデジタル化された感覚を壊してくれるような、徹底的なアナログの展開ではないんだね。僕が演劇をどうしても並行してやらざるをえなくなった背景には、そういう状況があった。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?