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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (65) 葉山より

 明治34年の夏、東京府立第四中学校五年生の中先生は、そのころ親しくしていた友人の別荘ですごしました。このことは「銀の匙」(初出は「つむじまがり」第37回。大正4年5月23日、東京朝日新聞)で語られているとおりですが、その別荘の所在地は三浦半島の葉山です。中先生にとって葉山はまったく未知の土地ではなく、山田さんは中先生の紹介を得て葉山逗留を決めたのでした。
 明治39年の秋ころから山田さんは健康に自信が出てきたようで、復学を決意した模様です。年末上京した山田さんはたぶん一高に出向いて復学の意向を伝え、それから年末年始をすごすために葉山に向ったのであろう思います。12月26日付の中先生宛の第126書簡には逗留先の様子が記されています。「客は僕一人ださうだ」と山田さんは書き始めました。非常に静かで暖かで風が入って落ち着いていること、今まで例の『哲学概論』を読んでいたこと、静かで暖かではあるけれどもシケで風が強く、波が高く吠えていること、ここから見ると松葉の中から青い青い海に白波の走るのが見えることが伝えられました。真正面に松葉の茂みがあって今は富士山は見えないが、やさしくてきれいで立派だという感想も語られて、それから、「君が居た時の事を色々思つて見る」と言い添えられました。「人を見ても室を見ても君が昔何をしたかとすぐ思ふ」というのです。
 客は山田さんひとりというところから推すと、山田さんの滞在先は旅館のように思えますし、中先生がいたときのことをいろいろ思ってみるというのですから、かつて中先生が滞在したことのある旅館のようでもあります。そのうえ、「けれ共君がいつた様に入費が安くないのが一ついけない」と山田さんの言葉が続くのですから、中先生のよく知る旅館であろうという印象はますます強くなります。山田さんの言葉をもう少し拾うと、田舎の若い衆らしいたくましい男ばかりがいてよく、下女もおとなしそうなうそのないような人間でよいとも言われています。これらの人たちは旅館の雇人でしょうか。15歳になる中学生がいて、ほかに小さな弟もいるとも。この兄弟は旅館の経営者の家族でしょうか。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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