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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (125)上州赤城山の回想

『沼のほとり』から気にかかる諸事実を拾いたいと思います。大正10年3月某日の記事に、「信州から送つてくれた草花の種子が幾袋かある」と書かれています。我孫子ではなく四谷信濃町の仮住まいの住居でのことのようですが、末子さんがこの種子をもちだして蒔こう、蒔こうと中先生を誘いました。そのおりの光景が描かれていますが、ここで目を引くのは信州から草花の種子が送られてきたという一事です。単に信州とあるのみで信州のどこからとも書かれているわけではありませんが、信州から中先生にといえば野尻湖畔の人びとのことであろうと自然に連想されます。安養寺の藤木住職さんか、あるいは池田萬作さんか、またあるいは本陣さんこと池田精治さんというなつかしいお名前が念頭に浮びます。野尻湖で結ばれた縁(えにし)が生き続けていることがわずかに示唆されているような思いがします。翌大正11年の夏、兄金一と末子さんは野尻湖畔に避暑に出かけ、池田萬作さんたちと交流していますが、中先生のおすすめによることと見てよいと思います。大正10年8月10日付で和辻照子さんに宛てた手紙で、「私は先月卅日から東京に居ります」と伝えられました。一時的に我孫子を離れて赤坂表町の中家に滞在中という意味の報告です。その理由として、

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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