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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (102) 福岡から野尻湖へ

 やす子さんの葬儀ののち、中先生は再び野尻湖畔にもどりました。母とともに福岡を発ち、東京で母と別れ、それから単身野尻湖に向ったことと思われますが、正確な日時は不明です。福岡ではやす子さんの枕辺で「銀の匙」の書き起こしの部分を書いただけで、しかも病勢が進んだため執筆は中止されました。このような経緯を考え合せると、おそらくはじめに野尻湖に着いたのは7月早々のことで、それから日も浅いうちに福岡に向い、7月も終りがけのころ再び野尻湖に向ったのであろうと見てよさそうに思います。それなら「銀の匙」の執筆のために必死の努力を重ねていたのはおおよそ8月の日々のことであることになります。中先生は神経衰弱気味になり、頭が朦朧としてたびたび眩暈を起しました。「銀の匙」はあのとおり読んではのどからしいものだけれどもと中先生は言い、それから「仕事は難行苦行だつた」と言い添えました。
 明治45年7月30日、明治天皇の崩御を受けて皇太子嘉仁親王が即位し、この日から大正元年になりました。
 9月に入り、漱石先生から9月9日付の絵葉書が届きました。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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