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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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#中金一

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (7) 独逸学協会学校

 中先生と兄金一は仲の悪い兄弟でした。少年の日の中先生と14歳年長の兄の消息はさまざまな衣…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (8) 中金一の医学修業

 中金一が入学した時期の一高は三部制で、第一部、第二部、第三部に分けられていました。一高…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (9) 星を見る少年

 明治34年7月に中金一が東京帝大の卒業証書授与式に臨んだころ、中先生は数えて17歳で、府立…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (10) 関口の大洗堰の別…

 兄に連れられてある海岸へ連れていかれたこともありました。そのおりの情景は「つむじまがり…

高瀬正仁
3年前
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『小国民』第六年、第四号

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高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (11) ドイツ留学

 医科大学を卒業して青山内科の助手になった金一はまもなく洋行することになり、文部省から「…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (18) 神戸にて

 既述のように、中先生の兄金一がドイツ留学を終えて帰国したのは明治38年11月のことでした。ドイツ滞在中にすでに明治36年12月14日付で福岡医科大学助教授の辞令が出され、帰国直後の明治38年11月30日付で内科学第二講座担当の教授の辞令が出ていましたので、あまり時間をおかずに福岡に移らなければなりませんが、もう年末のことですし、福岡行は年明けの1月はじめになりました。いくばくかの消息を山田さんが伝えています。山田さんの遺稿集『山田又吉遺稿』に収録されている書簡は全部で188

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (19) 中金一教授の講義…

 九州帝国大学は明治43年12月に公布された勅令第448号をもって設立され、明治44年1月より施行…

高瀬正仁
3年前
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京都帝国大学福岡医科大学学友会役員(明治40年)

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高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (20) 小野寺直助の日記…

 福岡医科大学時代の金一さんの話になりましたので、これからしばらくの間、金一先生、稲田先…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (21) 学界の決死隊

 医科大学志望の第三部の学生たちが、福岡医科大学への進学を余儀なくされることを「死刑宣告…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (22) 休職から退職へ

 小野寺先生は明治38年9月から二年生になりました。諸先生の講義が次々と開講され、そのなか…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (23) 学位取得まで

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高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (24) 妹を見舞う

 藤澤さんとやす子さんが結婚した時期はいつのことなのか、正確な日時は不明ですが、金一先生がお元気なころであるのは確かですし。福岡医科大学の第1回目の卒業証書授与式が行われたのは明治40年12月12日。藤澤さんは恩賜の銀時計をいただいて卒業し、助手になりました。金一先生が病に襲われたのは明治42年1月。それなら藤澤さんとやす子さんの結婚は明治41年のことと見てまちがいないと思います。