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焦点はどこにある

……目が、悪い。

眼鏡がなければ、ほとんど見えない。
コンタクトレンズがなければ、ぼんやりとした世界しか見えない。

老いた私の目玉は、焦点を合わせる機能に乏しい。

もののある場所の距離ごとに、焦点を合わせるため、眼鏡やコンタクトレンズを使用する。

裸眼の私の焦点は、およそ、3センチ。
眼鏡の私の焦点は、およそ、30センチ。
コンタクトレンズの私の焦点は、およそ、1メートル。
運転用の眼鏡の私の焦点は、遠く。

裸眼の私は、机の上の汚れに気が付かない。
眼鏡の私は、机の上の汚れになんとなく気が付く。
コンタクトレンズの私は、机の上の汚れに気が付くけれど、目を逸らす。
運転用の眼鏡の私は、机の前にすわらない。

裸眼の私は、玄関の階段の汚れに気が付かない。
眼鏡の私は、玄関の階段の汚れに気が付かない。
コンタクトレンズの私は、玄関の階段の汚れに気が付いて、それを踏んでいく。
運転用の眼鏡の私は、玄関には立たない。

裸眼の私は、車に乗っても何もできない。
眼鏡の私は、車に乗ってエンジンをかけることはできる。
コンタクトレンズの私は、車に乗って運転することはできるけど、目が乾いて仕方がない。
運転用の眼鏡の私は、車に乗って安全運転に努めることができる。

裸眼の私は、指の先に刺さった棘を見ることができる。
眼鏡の私は、指の先に刺さった棘を見ることはできるが小さくて見にくい。
コンタクトレンズの私は、指の先に刺さった棘を見ようとしてもよく見えない。
運転用の眼鏡の私は、指の先に刺さった棘を見るときはフレームを上に持ち上げて覗き込む。

何かを見るときには、それ相応の準備が必要なのだ。

見たくないものを見る時には、見えない準備を整える。
見なくても済むのであれば、見えなくてもいいのだ。

例えば、鏡を見る時は、裸眼がいい。
くすんだ肌も、小憎たらしいシミも、いい感じにぼやけて見えるのだ。

見たくないものを見なくてはならない時には、見るための準備を整える。
見たくないものから目をそらしてはいけないのだ。

例えば、裏庭の様子を確認する時はコンタクトレンズがいい。
伸び放題のグミの木に作られている鳥の巣も、雑草だらけの花壇のはじっこで干からびているトカゲのしっぽも、見逃すことなくチェックできるのだ。

見たいものを見る時には、見える準備を整える。
見たいものが見えなければ、意味がないのだ。

例えば、ミュージカルを見に行くときはオペラグラスも持参する。
舞台上で華やかに輝く演者の、輝く汗の1つも見逃したくはないのだ。

見たいものを見る時でも、見える準備をしないことがある。
見たくないものまで見えてしまう悲劇を起こさないためだ。

例えば、子供の頃大好きだった歌手のコンサートに行くときは、眼鏡の準備を欠かさない。
舞台上で明るく照らされる、老いてしまった大スターの衰えから目を逸らしたくなってしまう事があるのだ。

見たいものは、自分に都合のいい画面。
見たいものは、自分が心地良い場面。
見たいものは、自分が見て良かったと思う瞬間。

見たくないものは、自分に不必要ななにか。
見たくないものは、自分に相応しくない現実。
見たくないものは、自分が見て後悔する瞬間。

目玉が自動的にピントを合わせていた頃は、焦点の存在など気にせず目を向けていた。
見たいものも、見たくないものも、全て焦点を合わせて受け止めていた時代があった。

見なくていいものを見て、落ち込むことがあった。
見なくていいものが見えてしまって、挫けることがあった。
見なくていいものに囚われてしまって、何も見えなくなることがあった。

見なくてもいいものはいつだって、もう何も見たくないと願ってしまうほどに私を傷つけた。

年を重ね、焦点を合わせるために、道具を準備しなければいけなくなった、私。
見たくないものは、見ないという選択ができるようになった、私。

それは、果たして、成長なのか、衰えなのか。

見たくないものを見て、ダメージを受けることを避けるテクニックが身に付いたのか、それとも。
見たくないものを見て、ダメージを受けたのちに、乗り越えることができる心の強さを持てるようになったのか、それとも。
見たくないものを見て、ダメージを受けたのちに、それを乗り越えることができる若さがなくなってしまったから見ようとしないのか、それとも。

見たくないものを見ないで済む、今の時代が一番……幸せで、あると。

裸眼で、ぼんやりと青い空と雲のコントラストを見つめ、ひと時の安らぎを得て、微睡む……私。

「ただいまーって!!!うわ!!何この部屋!!きたなっ!!!」
「これはひどい。」

……自動的に焦点が合う、若い皆さんの、お帰りだ。

待ちかねておりました、お帰りなさいませー♪

「ごめーん、なんか猫砂ぶちまけちゃったんだけどさあ、目が、悪くて……よく、見えないの…衰えた私じゃ、どうにも、出来ない、よ…ごほ、ごほ……、片付けて!!!」

新しい猫砂に入れ替えようと思って、袋を持ち上げたらさあ、まさかの袋に穴が開いてて!!!掃除機掛けたりちり取りで取ったりしてたんだけど、細かいのがあっちこっちに飛んじゃってねえ。さっきまでめっちゃてんてこまいで片付けてたからさあ、もう目はしょぼしょぼするし、腰は痛いしで、疲労困憊なんだよね!

ソファに沈み込み、窓の外を望む私の目には、薄グリーンのラグの色しか、見えてないわけですよ。
つぶつぶが散らばっている様子は、一粒も確認できないのですよ。

娘と息子がリビングの入り口で立ってるのはわかるけど、どんな表情をしているかは見えてないわけですよ。

「自分で汚しといて子供に片付けさせるとかなんて人!!も~、いつもこれだよ!!」
「掃除機かけよう…。」

どうやら呆れてはいるが、助けてはいただける模様!
うーん、いい人ですね、さすがです!私に似たんだな!!

「ありがとー!じゃあ、私は晩御飯作ってこよ!」

俄然元気の戻ってきた私、ソファから立ち上がって、見えない目でテーブルをまさぐり……あ、あったあった!!

「めっちゃ元気じゃん!!!あたし今日肉食べたいんだけど!!!!」
「キノコも欲しい。」

「へいへい、りょーかい、りょーかい!じゃあ、あと宜しく♪」

私は、眼鏡をかけて、キッチンへと向かったのであった。


最近の老眼鏡はオシャレでよき!!
(なお、不注意で踏みつぶすパターン)


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