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私はひねくれてるんじゃない、"本質的"なだけ。

どうも、こんにちは。
成長欲求と堕落欲求が共存している22歳大学生のたかおです!

先日、去年TABIPPOという、主に旅を広める団体で活動を一緒にしていた友人と話しているときに私の短所についての話になったんですよね。

その時に私が思いついたのは、「ひねくれている」ということ。
そして、それを素直にそれを伝えてみると、、、
「いや、ひねくれてるんかもしれんけど、たかおはひねくれているというか、本質的なイメージ。」と言われてハッとなりました。

「そうだ!『ひねくれてる』のは、『本質的』なのと表裏一体なのだ!!」
⚠️もちろん「ひねくれている」=「本質的」というわけではありません。


つまり、ベン図(学生時代に習った集合の図ですね)で表してみると、

こんな風になっているはず・・・。
(反例をパッと出せませんでしたが、さすがに「本質的であり、しかしひねくれ者でない」パターンも感覚的にあるように思うので流石に輪の中に全て入れる勇気はありませんでした笑笑)

ただ、私も恥ずかしながら、ひねくれているだけの場面は多々あります笑笑
しかしながら、「自分今のひねくれてるかも、、、」と思ったけど、ただ本質的であった場面もあるのも事実。

例えば、先ほど出てきた団体TABIPPO内でよくあったことは、
同じ役職の人や、同じチームの人、同じプロジェクトを動かすSNSグループにいる人、よく関わる人間、そういった仲間から「たかおはすごい、みんなから信頼がある」と言われることがありました。(自慢じゃないです、これを言いたいんじゃないんです、ごめんなさい。笑笑)
しかし、そのたびに思うのです。
「いや、同じ場面で動いている部分でしか俺を見れてないのにそんなこと言えなくない??」

もし本当の意味で「みんな」から信頼のある人間なら、上に挙げたような「同じ役職の人や、同じチームの人、同じプロジェクトを動かすSNSグループにいる人、よく関わる人間」だけでなく、関係的にも立場的にも距離的にも遠くの人間からも多々言われるはず。

で、ここで考えたのは、「違う」役職の人や、「違う」チームの人、「違う」プロジェクトを動かすSNSグループにいる人にまでもそういった言葉を言われるようになれば、本当の意味での「たかおはすごい、"みんな"から信頼がある」ということになるのでは、ということ。それからは自分の目指す像のひとつに上記のことを満たす人間というのも加えて行動しました。

このように、僕の場合、他人から言われる、自分に対するプラスの評価をそのまま受け取ることは少なく、基本的に懐疑的に受け止めます。そのせいで「ひねくれてるなぁ」と言われることはあるけど、結果的にはそこから本質的な問いを自分自身に投げかけ、本質的な目標や評価を目指すことができているんですよね。

皆さんも試して見ませんか?
一度疑い、検討し、その上で大丈夫そうであれば素直に受け取ればいいのです。
⚠️自己承認欲求のかなり高い方は、プラスの評価はそのまますべて鵜呑みにすることをお勧めします・・・笑笑自分の欲求に合わせてみてください。僕の場合は自己成長欲求がかなり高いのでこの方法が自分にあってます。

最初はひねくれ者でいい。そこから質を高めて本質的な人間に。
#TraveLiFE #いろどりせかい #私の気づきノート

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