見出し画像

キリスト教初心者のための「新約聖書」超入門(3/4)

前回までで七つの言葉のうち三つ目までを見てきました。今回は四つ目と五つ目の言葉を解説してみます。四つ目の言葉はこちらです。

画像1

マルコ福音書15章34節の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。イエスが十字架の上で、苦しみと悲しみを言葉で表しているようにも思えます。この言葉にはどのような意義があると考えられるのでしょうか?以下の三つのポイントに沿って西谷先生は解説されています。

画像2

一つ目のポイントは「身代わりの子羊」。ここでのキーワードは「渡す」です。

12人の弟子のうちの一人出会ったユダがユダヤ教の指導者たちにイエスを引き渡し、不当な裁判で神への冒涜罪に定めたユダヤ教指導者たちは総督プラトに引き渡し、ピラトは迷った挙句に十字架につけるために引き渡しました。人から人へイエスは渡されることで、人類全体の罪を一手に引き受けて身代わりとして裁かれることになったわけです。

画像3

二つ目のポイントは「罪を裁き、ゆるす権威」です。ヨハネ福音書から引用した上記のシーンは、姦淫の罪で問われている女性を、ユダヤ教の指導者・律法学者やファリサイ人がイエスの所に連れてきて、十戒を破る罪を犯した者の石打刑の是非を問うている場面です。

イエスがこの女性をゆるしたとしたら、律法違反でありイエスを石打ち刑に追いやることができます。しかし反対に、石打ちを肯定したら、イエスが常に主張している罪のゆるしを否定することになり、律法主義の立場に転向したと喧伝することができるわけです。

この一見するとディレンマと思われる状況で、イエスは上記の発言をしました。罪を犯したことがないと自信を持って言える人は普通はいませんから、そこにいたすべての人が石打刑を執行せずにその場を去り、イエスのみが残りました。その上で、自身の意志を持って石を投げず、女性の罪をゆるした、というお話です。

画像4

三つ目のポイントは「律法主義からの解放」です。マルコ福音書から上述した例を引いていますが、この例では、礼拝の日である安息日に、礼拝に出席した病人をイエスが癒したことに対してファリサイ人が「安息日にはなにもしてはならない」として批判したシーンです。

この批判に対してイエスは上記の言葉を述べ、律法主義という人間の作ったルールを批判します。要は疎外だというわけです。

では四つ目の言葉と同じかそれ以上にさらに人間らしい言葉を吐き出している五つ目の言葉を見てみましょう。

画像5

五つ目の言葉は、ヨハネ福音書19章28節の「わたしは渇く」です。「わたしは渇く」と言ったイエスに対して、周囲の人々は酸っぱいぶどう酒を手渡します。ぶどう酒を渡すという行為には同情性も含まれているものの、酢のように「酸っぱいぶどう酒」という、普通は飲まないものを渡す行為には人々の侮蔑感も表されていると言えるでしょう。

画像6

一つ目のポイントは「無実性」です。これまでも述べてきましたが、イエスは無実の罪で磔刑に処されました。精神的な無実性と、身体的な苦しみとが融合し、イエスの死は、神性と人間性の結合と捉えられるようです。

画像7

二つ目のポイントは「受肉」です。神でありながら人間であるイエスの苦しみを救うことは私たちにはできません。しかし、貧しく弱い人々や助けを求める人々に対して奉仕することが、イエスへの奉仕に繋がり、つまりは神への奉仕となるわけです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?