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なぜ私は走り続けるのか?〜村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』に基づく仮説的な回答。

村上春樹さんのように、きれいな文章は書けないし、フルマラソンで4時間を切ることも(今のところは)できていません。しかし、彼が走ることについて語る内容にはいたく共感します。たとえば以下の箇所。

マラソンは万人に向いたスポーツではない。小説家が万人に向いた職業ではないのと同じように。僕は誰かに勧められたり、求められたりして小説家になったわけではない(止められこそすれ)。思うところあって勝手に小説家になった。それと同じように、人は誰かに勧められてランナーにはならない。人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。(66〜67頁)

私の場合、少しずつ、しかし確実に太り始めた時期がありました。35歳を過ぎた頃です。その際に、唐突に、ふと走ろうと思いました。風光明媚な飛騨高山の川沿いに住んでいたということも大きかったのでしょうけれども、何より走り始めて心地よかったということが継続できた理由でしょう。

また、誰から勧められたわけではなく、自発的に走り始めたということも良かったようです。当時よりも以前に「最近走り始めて気持ちいいから、ぜひ走ろう」と言って下さった人生の諸先輩方がいましたが、全く気乗りしませんでした。助言は大変ありがたいのですが、何かを始めるきっかけは多分に内発的なものが必要なようです。特に私のような天邪鬼な性格の人間にとっては。

実は、他の方々から走ることを勧められたときに、私が否定的に捉えていたのは、走っている時間=何も考えられない時間に思えたからです。ダイエットが目的ならば、もっと時間を短縮して効率的に行えばいいのではないか、というわけですね。

しかし、走ることによって思考が整理されるという効能があるのではないかと最近では感じます。村上春樹さんも同じようなことを、クリアに文章に表しています。

 僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。(32頁)

何かを考えようと意図して考えることはたしかにできません。しかし、結果的にその時々の未整理の内容を整理し新しい考えに至るということが走ることの効能なのではないでしょうか。寝ることもそうした効用を持つようですが、走るという能動的な行為にもこうした効能があるようです。

走ることには、健康維持にも思考の整理にも効能があります。しかし、そうであれば、5kmや10kmのジョギングでもいいはずです。にも関わらず、なぜフルマラソンなどという所業に人は(村上春樹さんや私は)魅せられるのでしょうか。

 そう、ある種のプロセスは何を持ってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。
 やれやれ。(95〜96頁)

フルマラソンを走りきることは辛い。特に30kmを過ぎた後からの苦しさは堪りません。走り終わった後はもう走りたくないと思います。しかし、走り終えたという快感はすぐに訪れ、やみつきになります。こうして、マラソンを走った人間は、好きこのんでその苦行にいそいそと臨み続けることになるようです。やれやれ。


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