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なぜ学び続けるのか?〜村上春樹『職業としての小説家』に基づく仮説的な回答。

大学に入って以降、何かを読み、考え、アウトプットするという行為は私にとって自然なものとなりました。爾来、何のためにそんなに本を読むのかとか、何が目的で大学院に行くのか、などとよく尋ねられますが、目的などという大それたものはありません。単に学ぶというプロセスが好きだからです。ありがたいことに、学ぶことは(通常は)害悪と見做される行為ではないので、幸運な趣味だと思っています。

とは言え、今回、四〇歳を前にして大学院に行くことにしたことは大きな決断ではありまして、ただ学ぶプロセスの中でも書くというアウトプットに対する欲求の要素が大きいようです。高山から京都に移った2018年の春に、ふと無性に学術論文が書きたいなと思ったのが最初のきっかけです。その時は、切実に書きたいテーマがなかったので大学院に行くまでには至らなかったのですが、今回、全てが整合したというところです。

2018年に思い立った直接的なきっかけは、村上春樹さんの『職業としての小説家』でした。

本書を読んで、小説を書こうとは全く思わず、論文を書きたいと思うのはおかしいのかもしれません。実際、ヘンなのでしょう。ただ、非常に乱暴に言えば、アウトプットしたいという感覚は、小説であれ、論文であれ、それほど大きくは違わないのではないでしょうか。この心境を説明したいので、以下を読んでみてください。

あらゆる創作行為には多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれているからです。つまり自己を相対化することによって、つまり自分の魂を今あるものとは違ったフォームにあてはめていくことによって、生きる過程で避けがたく生じる様々な矛盾なり、ズレなり、歪みなりを解消していくーーあるいは昇華していくーーということです。(244頁)

何かを創り出す行為には、自分自身を客観視する作用があると言います。自身を振り返り、それを言語化するということに動機付けられたということなのでしょう。その際に、私の場合は、小説やエッセーではなく、社会科学の論文という形式を選ぶのが自然であるというわけです。では何かをゼロから創出するためのきっかけはなんなのでしょうか。

イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直観を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力となるべきものです。(117頁)

村上春樹さんの場合には、小説という形式で物語が形成されるということのようです。残念ながら、私にはそのような内的精神世界を外化する欲求はありません。

ただ、事実や経験に基づいた知識を整理したいという欲求は強いようです。加えて、そうした知識を組み合わせることが自身の将来のキャリアにも繋がると信じている側面があるのでしょう。良く言えば現実的であり、悪く言えば打算的な性格ということですね。

言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。(37頁)

私が用いるメディアや形式は、プロフェッショナルな小説家の方々のそれとは全く異なりますが、言葉の持つ力には自覚的にありたいものです。心して、論文という形式にまとめていきたいと思います。


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