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キリスト教初心者のための「新約聖書」超入門(4/4)

先週までで五つ目の言葉までを見てきました。最終回である今回は、六つ目の七つ目の言葉を扱います。

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まずは六つ目の「成し遂げられた」です。この言葉はヨハネ福音書19章30節にあります。

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ポイントは①意味論的飽和と②成就の二つに分けて解説していきましょう。まずは①意味論的飽和から見ていきます。

①意味論的飽和

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この意味論的飽和という言葉は、Learning Barでのセッションの際にもウケがよく、私も好きな言葉です。現代の企業社会でも、元々は背景や意味があって導入された制度が、環境が変わっても墨守されることで、現実に即さないものになってしまう、ということが多いのではないでしょうか。

イエスが生きた時代には、ユダヤ教で元々は意味があった儀式が、手段の目的化となってしまっていたものもあったのでしょう。そうしたものへ疑問を投げかける究極の手段が、イエスが自身の死を賭けて成し遂げたものだったということなのではないでしょうか。

②成就

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成就というキーワードにおいては、私たちが直面する物事の全てにおいて意味があり、終わり(成就)があるという考え方が提示されます。ただ漫然と何かに対応するという受け身の捉え方ではなく、主体的に物事に取り組みながら積極的に意味や目的を見出すという姿勢が求められるということなのではないでしょうか。

こうした考え方によって、私たちが直面するチャレンジを、重荷ではなく重しと受け止める、という言葉もセッションの中では印象的だったようです。私自身は、日光東照宮にも掲示されている徳川家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」の世界観も好きだったりします。

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最後に、七つ目の言葉を見ていきましょう。

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最後に取り上げるのは、ルカ福音書23章46節から「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。この言葉も二つのポイントから見ていきましょう。

①聖霊の宗教

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元々、ギリシア的人間観では、汚れは人間の肉体のみにあり霊魂は清らかであり死後も不滅としていました。それに対して、キリスト教では、罪の全体性という捉え方をしています。

罪に陥ることによって正しく思考しなくなった理性(魂)と、感覚的な欲望に支配された肉体(体)に対して、罪から悔い改めることによって聖化する力を与えるのが神から人間に新たに授けられる清い霊=聖霊である、という考え方です。これが霊・魂・体の三元論であると西谷先生は指摘します。

②霊の体への復活

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復活という言葉を身体における復活と捉えると、胡散臭いものに感じられます。しかし、イエスの復活は、霊としての復活であり身体としての復活ではないのではないかという西谷先生の主張にはなんとなく納得させられるような気がします。

さらには身体が復活しないという考え方によって、身体的な意味で死んだ状態のものについては、火葬が許されたり、臓器を他者の健康のために提供することが認められるというロジックが提供される礎にもなっているのです。


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