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模倣する自分を作る

 生活には様式がある。一年に季節があるように、日毎に天気が変わるように、生活は人間的自然なものである。私は、生活を変えようと奮起しては、悉く失敗し、その度に打ち拉がれていた。考え方が根本的に間違っていたのだ!生活とは、既にそうなるべくしてなっている、いわば自分自身の来歴を引き摺った過去の形態そのものである。もし、生活改善が、単純な過去の否定として、或いは過去からの断絶として意図されているのなら、当然、そのしっぺ返しが来る。

 私は、ここに於いて、最近聞き齧った「保守」という言葉を思い出す。或いは、「漸進主義」ということも。何かしら抜本的な改革とは、私に合わないのだ。慣れ親しんだ物を、全く新しい衣装にしてしまうのは、名残惜しい。

 生活のある場面を「悪癖」と見做すこと自体が、ある意味、自己否定であり、自然への冒涜とさえいえる。強いて言えば、それは、悪結果であり、その原因は生活自体に求められるというより、生活環境の方であろう。生活とは、生活者と生活環境の二つに区別される。生活者と生活環境は相互作用の関係にある。先の「悪癖」も、この生活者と生活環境の相互作用における結果として現れたものと見做すべきだ。だから、生活改善ではなく、生活者に依る、己の生活環境への働きかけこそが大切になる。

 堅苦しいことを書いた。ただ、書き始めた時に思いついた言葉は、「暮らしのテーマ」ということだ。暮らし、生活、ライフ。それは、夢物語のような語り方をしても仕方ないのだ。それは、例えば坂口恭平さんのような「語り方」をしないと、動かないものだ。坂口さんが中学生向けにテストの段取りについて説いた本があり、その中に、「将来の夢を考えるのではなく、将来の現実を考えて下さい」という一節があった。「将来の現実」とは、つまり、今から10年後、20年後、30年後、40年後、50年後も、一日は24時間だし、太陽が昇ったら起きて、ご飯を食べて、家を出て、何かしら人と出会い、何かしら手を動かし、太陽が沈む頃、家に帰って来て、家族がいれば家族と団欒するだろう、独り身なら好きなことをやるだろう、その内夜になれば酒を飲むのか、煙草を吸うのかして、風呂に入って眠るのだ。それこそ小学生の頃からやってきたような生活が、大人になっても、老人になっても、やって来るのだ。坂口さんはこんなに味気無く書いては無かったと思うが、つまるところ、「将来の現実」という言葉の定義の最も一般的なところは、1日は24時間であるということだ。南極に暮らそうが、アフリカのサバンナで暮らそうが、国際宇宙ステーションで暮らそうが同じである。1日とは、つまりは、太陽のことだ。小学校の理科で習ったことだ。太陽の周りを地球が公転し、その地球自身も自転し、地球の周りを月が公転する。不動に見える太陽も自転しているし、月も自転している。太陽と地球と月が、自転しながら公転している。「将来の現実」とは、天文学的な事実のことである。更に言えば、この天体運動も永遠ではなく、いつか終わる。太陽はいつか爆発する。そして、太陽系はその爆発によって永遠に宇宙の星屑となって、人類は恐らく誰もその存在すら忘れられるものとなる・・・・・・

 「将来の現実」とは、だが、考え出せば出すほど、恐ろしい。いつか私は死ぬ。どのようなタイミングで死ぬのかも分からない。その時、誰がそばに居てくれるのかも。その時、父と母はまだ生きているだろうか。将来の現実とは、嫌な想像を掻き立ている。見たくない現実かもしれない。坂口さんの語り口の、ある種のデモーニッシュなところは、そういう触れたくない、見たくない現実に身体を丸ごとくぐらせようとするところだ。「将来の現実」とは、私が死ぬことであり、母方の祖母も、父も、母も、弟も、義理の妹も、また彼らの間に生まれたばかりの甥っ子も、いつかどこかで死ぬということである。哲学者の中島義道さんは、この自分が死ぬということを一生のテーマとして悩み抜こう、藻掻こうという提案をしているが、私は、どうだろうか。

 坂口恭平さんの生活のテーマは、「作る」ということなのだろうか。中島義道さんのそれが「死の練習」なのだろうか。私は、必ずしも、自分が死ぬことについて真剣に考えたい、訳ではない。その問いが、私の体を揺すぶって、前後不覚になっている訳ではないからだ。また、坂口さんのように、作品作りに熱心な訳ではない。私は、彼らのような強烈な個性の持ち主ではないからだ。またそうなりたいと願っていない。私は、クリエイティブになりたいと願ったことが一度もない。その代りに、いつも何かを模倣したいと願っていた。或いは、模倣を完全に物にして、その先に個性が宿るというようなことをぼんやりと、臆病に信じている。問題は、今や、誰を、何を模倣するべきなのかがてんで分からないということなのだ。

 高校生の頃は、身近な英語教師を模倣していた。浪人生の頃、体調を崩したが、それは模倣する相手が居なかったからだ。大学生の頃は、幸い、同輩、先輩に恵まれたから、彼らを模倣していた。大学院生の頃、孤独になって、やはり体調を崩した。教員時代は、大学院生活に悪化した心身の疲労が祟り、殆ど何もできず退職してしまった。そうして、療養生活とフリーター生活と求職活動が、入り混じりながら、3年の月日が流れ、今の仕事に落ち着いた。

 模倣する自分を作らねばならない。それは、好き勝手に自分を造形するのではない。自分にフィットした服を自分で作るようなやり方でそうするのである。それには、技術が必要である。手仕事の技術である。試行錯誤しながら、工夫と練習の連続である。

 朝起きられるようになりたい。元気になりたい。痩せたい。体力をつけたい。筋肉をつけたい。走れるようになりたい。XLの服が着れるようになりたい。無理なく痩せたい。2023年の1年間をかけて、じっくり痩せたい。イメージは、自分が高校1年生の頃。あの頃が一番調子が良かった。体重は68キロ前後だった。70キロを超して、重い、と感じていたくらいだ。昨日体重計にのったら101キロだった。ということは、33キロ増えたのだ。33キロを1年間かけて減らして行く。朝起きる。食べない。夜薬を飲んで眠る。今はそれだけでいい。ジムに行ったり、午前中を「活用」したり、「効率的に」何かをしたりするのは止める。

 何度も言い聞かせよう。朝起きる。午前中買い物に行く。食べない。薬をちゃんと言われた通り飲む。夜寝る。それだけだ。

 


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