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自問自答の無意味さ

    朝起きる。それだけの事でも今の私は一苦労である。私は一辺に全てを「良く」しようとする傾向がある。そして、二、三日続いて、四日目に嫌になる。飽きて、我慢できなくなる。堪え性がないのだ。だから、一つ一つ、ゆっくり、丁寧に、慎重に、それが無理にならないまで、継続させる事を目的にしてやってゆきたいと思う。

    朝起きる事。概ね8時までに起きる。朝起きたら、まず音楽を聴きたい。それは無理ではない。身体がそれを求めるからだ。冬は外が寒い。外に出たくない。コーヒーを作る。タバコを吸う。とにかく無理矢理身体を動かさない事。身体が求める流れを意識する。大丈夫だ。私の体は決して人を傷つけるような動きはしない。それを願う。私の中の自然な働きが、わざわざ法に触れるようなことはない。

    毎日歩いて職場に行けば、それだけで一時間歩くことになる。ジムで更に一時間歩けば、一日の消費カロリーは600から700kcalになる。更に水曜日と日曜日は食べない(主食を摂らない)ので、半年以内に、20キロから25キロの減量が見込める。良い事だ。体が軽くなれば頭の働きも良くなるだろう。

    毎日英和辞典の半ページをノートに書き写す。13年かけて一冊書写したい。大丈夫。十年なんてあっという間に経つ

    つまらないことに、時間を無駄にしたくない。私は節約家というより、好き嫌いが激しいのだ。つまらないと感じたら直ぐに離れる。それは相手が悪いのではない。空気が悪いのだ。関係が悪いのだ。私は、好き嫌いが激しいというのは、誰かを嫌悪しているわけではないと信じたい。気分屋なだけである。

ご飯は茶碗ではなくおにぎりにして食べる。なぜか知らないが、おにぎりの方が美味しく感じる。シーチキンマヨおにぎりが大好き。4つも作った。2つ食べて、あとで2つ食べよう。

今日、西村賢太の文庫本が12冊、谷崎潤一郎の新潮文庫が13冊届く。それを待っている。早く読みたい。

 毎日職場まで歩いていき、ジムで1時間更に歩き、水曜日と日曜日は食べない。これを何度も言い聞かせること。私は気分屋であると同時に、忘れん坊なのだ。日々言い聞かせることを書いておかねばならない。

 歩きながら考えるのは、なぜ仕事がしんどいのだろうかということだ。やらねばならないことが多すぎて、心身が消耗するからだろうか。「やらねばならない」と思った瞬間に、体が疲れ、心の中に怒りが芽生える。反発心、反抗心、攻撃する者が生まれる。ああ、もういい、面倒くさい、やりたくない、意味が無い、つまらない、辞めたい。そう思う者が、「やらねばならない」という合図をきっかけにして生まれる。私は、「やらねばならない」と考えることだけは避けねばならない。すべて「やりたいこと」「他人が喜ぶこと」「確かに大変ではあるが、骨を折ることだが、決して無駄ではない。目の前の他人が他人なのではない。何かもっと大きな他者が喜ぶためにやることも可能だ。それが信仰心というものだ。きっとそうだ」このように考える。

 私は、兼ねてからキリスト教に興味、関心がある。もっと言えば、アメリカ人にとってのキリスト教に文化的な関心がある。或いは、教養として聖書を読みたいと思う。だが、結局それは知識や経験にはなるだろうが、己個人を支える物にはなりえない。

 私を支える真にリアリティのあるものは、「自由」である。以前の投稿でも書いた。強いられた自由。一方的に与えられた自由。憲法で保障されたような自由である。信仰の自由、職業選択の自由、移動の自由、結婚の自由、思想良心の自由。とにかく自由なのだ。これらをまとめて「選択の自由」とすれば、それらの選択の後に付随する「選択の責任」の重さの前に尻込みしてしまう。成功の自由とは、失敗の責任と同義である。私は、この「賭け」の精神の前に、尻込みする。ああなったら、こうなったら、どうしようか。そう考え始めると、何も選択しない自由と何の責任も取らないことに安住しようかとさえ思う。だが、論理的に突き詰めれば、そんな安直な結論は成立しない。選ばない自由を、結果として、事後的にせよ、私は意図して選んでしまっているということの自覚から逃れられないからである。

 私は、このように自分を思い詰める。そして、開き直ることができない。余程、自由が嫌いであるらしい。だからこそ、いっそのことキリスト教を選ぼうかと思っているのだ。自分に信頼を置くような恐ろしい自由を破棄して、さっさと決めてしまった方がいいのではないか。キリスト教に責任転嫁しようとしているのである。意志と責任。といえば、國分巧一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』(2019年、医学書院)である。

 まずは、己の立ち位置を決めないことには何も始まらない。キリスト者になるのなら、なったでも構わない。

 うーむ。何か違う。何か違う。世俗主義も嫌だが、かと言って、自分勝手にキリスト教だの哲学だのを持ち出して、「一抜けた」と澄まし顔をするのも違う。何が違うのだろうか。では、この与えられた大きすぎる自由と、到底取ることも不可能な責任を、男の意地で突き進むのだろうか。うーむ。それも、なんとなく、私には合っていないような気がしてならない。

 坂口恭平さんにせよ、浜崎洋介さんにせよ、共通して言えるのは、「いき」であることだ。九鬼周造の『粋の構造』によれば、粋とは、意気地、媚態、諦めの三つによって構成されているそうだ。分かり易く言い直せば、「意気地」とは男っぷり、女っぷりのことで、平たく言って勇気である。「媚態」とは、愛想の良さ、相手の懐に入っていく自然な好感である。最後の「諦め」とは、「諦めが悪い」という時のそれである。引き際を知っているということだろう。坂口さんには、意気地があって。浜崎さんには、媚態がある。

 私は、これからどうすればいいのだろうか。何を基準に生きていけばいいのだろうか。だが、何を基準にこれまで生きてきたというのか。別に無いのである。別に無くても生きてこれたのは、誰のおかげであろうか。父と母のおかげだろうか。先生や友人、先輩後輩、親戚、地元の人々のおかげであろうか。恩人というべき人が私にはいくらもいる。そういう有難い人たちのおかげだろうか。

 私は一体何を恐れているのか。仕事の面倒さを恐れているのか。嫌になっているのか。

 自問自答にも疲れ、嫌気がさしてきた。神田橋語録を思い出す。躁鬱病の人には、内省というものが機能しない。反省しても中身が無い。そう、私は中身のない人間だ。私の眼は、外の世界に開かれている。

 自分の中を見たって、面白くもなんともない。

 自問自答に向いていないということだ!それに気が付いた。自問自答するのを止めよう。自分に問いかけても、伽藍洞に独りぽつねんと横になっているような気分になるだけで、まさに虚無的になる。虚無は何も生まない。

 自問自答が方法論として優れているなんて、それこそ、誰が言ったのだろうか

 発見である。この発見を大切にしたい。



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