#4. 自己嫌悪をなんとかする
自己嫌悪をなんとかする方法。それは自己を相対的に観察する自己という構造の上部に、自己ならぬ他者を置くことである。大別な人や物を、あるいは名付けることもできない程の大きな価値や存在の意義や生活全般の目的を設定することである。結局、自己を超える物を上に置かないことには、運動の方向は下降ではなく、循環してしまう。観念的な位置エネルギーのようものだ。
何が言いたいのだろうか。つまり、自己嫌悪を何とかする方法を編み出したいのだ。これは経験則に即して語らねばならない。アナロジーを使わず、経験だけを抽出して何事かを帰納法的に説明したい。
自己嫌悪とは、原因ではなく結果である。自己嫌悪とは、結果的な自己の心理的、社会的、人間関係の状態である。自己が自己に対して嫌悪を催させるような条件である。これは、大袈裟に言えば、異常事態である。相当に深刻な事態である。自己が自己に対して否定するとは、普通の動物はやらない。否定と一口に言っても、嫌悪、軽蔑、後悔、憤怒、無関心と多様なアプローチがある。自己にとっての最大の敵が自己であるような状態である。
なぜそんなことになるのだろうか。自己が自己にとって最大の敵になるような、しかも、自己以外に頼れる人間が傍に居ないのなら、どうしようもなくなる。「自己信頼」と呼ばれる、アメリカの文学者、エマーソンの概念があるが、原題は "Self-Reliance"、自己に依拠するということである。価値判断の根拠を自己の内部に基礎づける様な生の有り方を言っているのだとすれば、「自分勝手」と訳されてもいいようなことだ。私は、それに対して、単純に不安になる。なぜと言って、好き勝手に生きていていい筈がないと思ってしまうからだ。というか、好き勝手に生きたことがないから、どうすればいいか全然分からないのである。
先に述べた自己嫌悪は、理想的な自己が、現実の自己に対して発破をかけようとした結果、現実の自己が不貞腐れてしまって、自暴自棄になっている状態である。問題は、価値判断の根拠、善悪の根拠が、どの立場を採用してても不透明であるという恐ろしさである。自己信頼しようにも、信頼に足るような自己が見出せない時、自己喪失になる。かと言って、どこかに理想的な自己を措定して、現実の自己を律しようとしても上手くいかない、挙句には、自己からそっぽを向かれる————自己から嫌われる。自己嫌悪とは、自己を嫌う自己ではなく、散々苛め抜いた結果、遂に自己にそっぽを向かれてしまって、あたふたしている、何ともしがたい自己の分裂状態である。
自己を回復するために、一体何が出来るだろうか。自己と調和を図るにはどうすればいいのか。自己の声に、現実の自分の声、訴えを否定せずに聞いてあげる事だろう。まずはそれからだ。
「もう、何もしたくない。あの仕事は、面倒だ。行きたくない。別に寝たくもないし、食べたくもない。外は寒いから出たくない。怒られたくない。嫌味を言われたくもない。仕事が一体何だというのか。俺は奴隷ではない。俺は奴隷ではない。俺はあんたらの奴隷ではない。」
現実の自分は、そういうことを思っている。俺はあんたらの奴隷ではないのだと。彼は自由になりたがっている。彼は、怨恨感情に囚われている。積もり積もった怒り、憎しみ、屈辱を晴らしたいと思っている。
ここはフロイトの援用が有効だろう。超自我ー自我ーイドという三者関係で自己を捉える方法である。「俺はあんたらの奴隷ではない」と叫ぶのは、真ん中の自我であり、「この子をどうすればいいだろうか」と悩むのは超自我である。イドの解説は以下に引用する。
自己嫌悪だの、自己喪失だの、散々書いてきて、どんでん返しをするようだが、ひょっとすれば、最大の問題は私のイド、エス、本能衝動にあるのではないか。性衝動、リビドー、攻撃衝動が、余りにも発散されないからこそ、消化不良、自家中毒状態を起こしているのではないか。だから、こんなところで、文章を書くことによって「昇華」を期待しているのではないか?
自己嫌悪も自己喪失も、理論的には乗り越え可能であるのかもしれない。だが、それは問題の皮相であって、本質的ではない。問題は、言語化されない無意識の方である。この気持ち悪さをどうにかしたいということだ。
超自我が自我を鍛え直そうとしている。自我は、超自我を鬱陶しく思っている。超自我も、自我をどうにもならない、面倒なものだと思っている。自己嫌悪と自己喪失が混在している。いずれにせよ、自己というつまらないものに拘っている限り、イドは満たされないだろう。
外に出る。珈琲を淹れる。煙草を吸う。残った仕事を終わらせる。買い物に行く。洗濯物をたたむ。ジムに行く。歩く。Led Zeppelinを聴く。noteを更新する。
自己に執着しないことだ。自己を見つめるのではなく、自己を取り巻いている環境に働きかける。自己改善を期待しない。自己に幻想を抱かない。自己に期待しない。自己を嫌悪もしなければ、陶酔もしない。いかなる意味でも、それはやはり、感傷にとどまる。感傷は、何も産まない。
何かしら生産的なことをする事。自己嫌悪を何とかする方法は、何かしら生産的な、何かしら他者と関わるようなことに身を置くことである。
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