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第34回東京国際映画祭「ちょっと思い出しただけ」

映画関連メディアはあのキネマ旬報ですら批判的なコメントはほとんどないが、映画ファンの多くがあんなのは“国際映画祭”と名乗る資格はないと言っている存在が東京国際映画祭だと思う。

勿論、この映画祭で上映後、日本ではスクリーンで見る機会がないままソフト化されたり、あるいはそれすらもされない作品もあるし、劇場公開されたとしても1年以上後になる作品もある。
だから、映画ファンは一応は上映作品をチェックするし、タイミングが合い、チケットを取れれば見に行ったりもするが、でも、心の中では、あんなの“国際映画祭”ではないと思っているのが本音ではなかろうか。

それは、洋楽界隈にとっての、フジロックフェスティバルやサマーソニックと同じだと思う。
あれだけ普段は、海外のフェスに関して言いたいことを言っているくせに、(ジャンルを問わない)洋楽系雑誌では最大の権威となっているロッキング・オンは、この2大フェスにとってはマンセー的なコメントしかしないからね。

特にサマソニなんて、邦楽アーティストだらけだし、アイドルや昭和の芸能人的な歌手も出ているし、K-POPだって出演している。
今年は番外編のスーパーソニックとしての開催だったが、コロナ禍ということもあり、開催地の自治体からは規模縮小の要請があった。さらに、洋楽アーティストからは日本のコロナ対策に対する不信なのか、スパソニ運営に対する不満なのかは知らないが、一部洋楽アーティストの出演キャンセルやダブルブッキングの問題も発生した。

洋楽メディアの権威であれば、こうした日本の芸能マスコミに媚びたラインナップやら、社会情勢を考慮しない強行開催に対しては批判すべきなのに、批判しないのはロッキング・オンが邦楽版のロッキング・オンを刊行し、なおかつ、邦楽フェスも開催しているからであり、その流れで邦楽のアーティストやレーベル関係者との繋がりも深いから批判できない構図になっているというのは少しでも音楽に興味がある人間なら誰でも分かることだ。海外フェスの問題点なら普段は喜んで報道しているんだから矛盾もいいところ!

通常は日本のメディアにしては珍しく国内作品に対しても批判的な論調をREVIEW欄で述べているキネマ旬報が、東京国際映画祭のラインナップや運営体制については批判的なコメントをほとんどしないのも、やはり、そうした業界のしがらみがあるんだろうなとは思う。個々の作品は批判できても、日本の映画業界そのものは批判できないんだと思う。キネ旬自体も映画館を運営しているからね。

でも、東京国際映画祭とフジロック・サマソニの間には決定的な違いがある。そんなに音楽マニアでなくても、フジロックやサマソニの名前は多くの人が知っているが、世間的には東京国際映画祭なんて、ほとんどの人が存在すら知っていないのでは?

TIFFというアルファベット表記の略称やティフという読み方は東京国際映画祭関係者や、映画祭関連のプロモーションや通訳などをやっている人が使っているだけで、映画関連の記事を執筆しているライターや映画マニアですら使っていないよね。

世界的にはTIFFという略称はトロント国際映画祭のことだしね。そして、国内ではティフという読み方は、TOKYO IDOL FESTIVALの略称TIFの読み方として定着しているしね。これなんて、フェス関係者やアイドル業界だけでなく、アイドル系メディアや、一般人のドルオタにまで浸透しているからね。

何故、東京国際映画祭が浸透しないのかを一言で言えば、それはラインナップのショボさであることは明白だ。

この映画祭はバブルな時代の1985年にスタートしたが、そんな日本が金を持っていた時代だって隔年開催しかできなかったんだよね。
要はボリューム満点と思ってもらえるだけの作品数を集めるには2年必要だったということ。それだって、東京国際ファンタスティック映画祭など協賛企画のおかげで盛り上がっているように見えただけだからね。

ラインナップがショボくなる理由は明白だ。世界三大映画祭と呼ばれる映画祭の開催時期は、ベルリン国際映画祭が2月頃。カンヌ国際映画祭が初夏。ベネチア国際映画祭が夏の終わりから秋のはじめとなっている。そして、秋から年末にかけてはアカデミー賞など映画賞レースを意識した作品の公開が相次ぐ時期だ。
つまり、コンペティション部門で上映できるような欧米の巨匠がメガホンをとったり、スターが出ていたりするようなおいしい作品なんて、三大映画祭以外の映画祭にはほとんど残っていないんだよね。

にもかかわらず、1991年以降は毎年開催になってしまったから、ラインナップはさらに薄味になってしまった。

そこへ来て、日本のバブル崩壊以降、中国や韓国が経済力をつけてしまい、それによって、わずかに残されたおいしい作品も上海国際映画祭や釜山国際映画祭がかっさらっていくようになってしまった。

だから、東京国際映画祭を開催すること自体がそもそも無理ゲーなんだよね。

それでも、1985年の第1回から2003年の第16回までのBunkamura(東急文化村)を中心とした渋谷地区で開催されていた時期はマシだったんだよね(イレギュラーで京都で開催された回もあったが)。渋谷という街をあげて映画祭を盛り上げようという気概は感じられたからね。
メイン会場のオーチャードホールは映画館ではないけれど、2000人以上が収容できるから、セレモニーや特別招待作品の上映で盛り上がり感を見せることはできた。

でも、2004年にTOHOシネマズ 六本木ヒルズを中心とした六本木地区での開催(他地区に分散して会場を設けた会もあった)になってからは一気にスケールダウンしてしまった。
一部作品の上映などは普段はコンサートや演劇の上演に使われているキャパおよそ1700のEX THEATER ROPPONGIを使ったりもしているが、メイン会場のTOHOシネマズ 六本木ヒルズでは最も大きなスクリーンでも座席数が500ちょっとしかないからね(2021年11月6日現在)。そりゃ、スケールダウンって感じだよね。

そして、コンペティションとか、アジア映画に特化した部門なんてのは日本での一般公開も期待できないような作品ばかりになり、盛り上がりに欠けてしまった。

一方で特別招待作品はプレミア感のないものばかりになった。正直なところ、間もなく一般公開される作品の先行上映とか有料試写会といった感じになってしまった。

また、上映作品の邦画率も年々高まり、どこが国際映画祭なんだよって感じになってしまった。カンヌなどに比べるとコンペティションで上映される作品が少ないのに、毎年のように複数の邦画が上映されるなんてありえないしね。

六本木地区での開催に変更したのは、2003年に六本木ヒルズが開業したことにより、六本木の人の流れが変わり、業界人を中心とした連中による夜の街でなくなったことが大きいことは言うまでもないと思う。
それと同時に、六本木開催であれば在京キー局すべてが港区を本拠地としていることから、取材に来てくれるとの思いもあったのではないかと思う(渋谷だと近場にある地上波はNHKだけしね)。

そして、何故、キー局に来て欲しいと思うようになったかといえば、邦画の上映率が高まったことにより、登壇する映画人も日本人だらけになったことから、映画イベントというよりかは芸能イベントになってしまったことも関係しているのだと思う。

邦画優遇策になった理由も明白だ。

日本人が洋画を見なくなったからだ。

2003年夏に公開されたテレビドラマの劇場版「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」が同時期公開の「マトリックス リローデッド」や「ターミネーター3」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」を遥かに上回る興収173億円以上を記録した。

この辺りから、邦画優位の興行になりつつあったので、翌年から邦画重視にシフトしたラインナップのために六本木開催に変更したと見ても問題はないと思う。

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去年はコロナの影響でかなりの規模縮小となったが、それでも六本木でフィジカル中心に開催された。だから、今年もコロナ前の規模までは戻らないにしてもその路線で行くのだろうと思っていた。

ところが日比谷・有楽町・銀座地区での開催に変更されてしまった。これまで、分散会場としてこの地区が使われたことはあったが、本拠地になったのは初めてだ。

この地区で開催するというニュースを聞いた時に自分は、六本木時代にTOHOシネマズ 六本木ヒルズをメイン会場にしていたように、TOHOシネマズ 日比谷がメイン会場になるのだろうと思っていた。というか、ほとんどの映画ファンはそう思っていたのでは?

ところが、クロージングセレモニーがTOHOシネマズ 日比谷のスクリーン12(以前のスカラ座)というある程度のキャパのあるスクリーンで行われる以外はすべてミニシアターと試写会などで使われるよみうりホールでのみの上映というありえないショボさになってしまっている。

TOHOシネマズ 日比谷では東京国際映画祭の期間とほぼ同じ時期に「10万分の1秒の音響映画祭」なんていうイベント(要は他のシネコンでやっている爆音上映会みたいなやつ=旧作の再上映)をやっているのに、東京国際映画祭にはクロージング以外は使わせないんだから、ぶっちゃけ、東宝としては東京国際映画祭は儲からないって思っているってことなんだろうね。 

ただでさえ、邦画だらけなのに国際映画祭なんて名乗るなって状態なのに、さらにショボさが増してしまったんだからね…。

そろそろ、やめた方がいいのでは?
映画ファン、業界関係者、東京都、経産省等々、誰も反対しないよ。

とはいえ、今回の映画祭を批判する以上は参加しなくてはならないと思い、コンペティション部門に出品された日本映画「ちょっと思い出しただけ」を見た。

こんなのがコンペに選ばれるって、どんな国際映画祭だよって感じかな。

伊藤沙莉はブレイクしたての頃は声に違和感を抱いたりもしたけれど、慣れてくると気にならないし、ぶっちゃけ可愛いと思う。
風俗嬢やメンズエステ嬢だったら間違いなくお気に入りになっていると思う。そういえば、「タイトル、拒絶」では風俗嬢になろうとしたが挫折して、風俗店スタッフになった女性を演じていたな…。

だから、彼女を見ているだけで満足はできるんだけれど、コンペ出品ってことを考えると酷評せずにはいられないかなと思う。

最初は、登場人物のほとんどがマスクをしていて、コロナ禍をきちんと描写している珍しくリアリティのある作品かなと思ったりもした。
邦画、洋画問わず、コロナ禍になってから撮影したのに、一切、コロナ禍の描写がない作品ばかりだからね…。結局、俳優連中というのは、リアリティのある芝居を見せることよりも自分の顔を売ることに熱心な自分勝手な奴らなんだというのがよく分かるよね。

ところが、別の日のシーンになってからは、突然、誰もマスクをしていないんだよね。変な違和感があった。

もう、コロナ禍の話だという説明はしたからいいでしょ。ここからは割り切って、俳優の顔を楽しんでくれよってことなのかなと思ったりもした。
よく、ハリウッド映画で米国人の主人公が外国人と会話している際に、最初は主人公が外国語でその外国人と会話しているのに、いつの間にか2人とも英語を話しているみたいなパターンが多いが、そんな感じなのかなと一瞬思ったりもした。

でも、しばらくして、これは時系列が遡っていくタイプの作品なんだということに気付き、その違和感は解消された。

結局、コレって、朝ドラ「おかえりモネ」でも使われた作劇法だよね。
見ている人に違和感を抱かせておいて、その後、過去の場面を描いたシーン(回想)を提示し、見ている人に“どう?見事な伏線回収でしょ?”って自画自賛するタイプのやつ。回想で謎解きするなんて、最低中の最低と言ってもいい作劇法だと思うけれどね。

まぁ、最近の若者は絶賛しそうだけれどね。説明台詞だらけの「鬼滅の刃」を絶賛するくらいだから謎解きを回想シーンで描くことも何とも思っていないだろうしね。

あと、いくら、ジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」にオマージュを捧げた作品だからといっても、喫煙シーンが多すぎる!
あの作品は1991年度の作品だから喫煙シーンがカッコよく描かれていたけれど、現在の国際的感覚ではそれはないからね。そういうことに思いが至らないから日本の映画人はダメなんだよ。そして、そんな作品をコンペに選ぶ東京国際映画祭の運営もダメダメ!

あと、本作のようなフィクション作品に限らず、ワイドショーとかバラエティ番組の取材ものでもストリート・ミュージシャンは美化されることが多いけれど、東京都では立派な条例違反だからね。つまり、犯罪行為!

東京都ではヘブンアーティストというライセンスを得た人だけが路上演奏できるんだよ。

だから、夜のシャッターの閉まった商店街のようなところで演奏しているストリート・ミュージシャンは犯罪者なんだよね。
東京都が関係している映画祭で上映される日本映画なんだから、その辺はしっかりしろよって思う。というか、東京都はコンペ部門の共催なのに何とも思わなかったのか?まぁ、金を出しただけで上映作品なんてチェックしていないんだろうね。

まぁ、伊藤沙莉が可愛いから、作品が抱えているあらゆる問題も全部許すけれどね。というか、彼女みたいな人と結婚したい。


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