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【社史】探究学舎実録27~ファシリの極意は〇〇から学べ!~

前回までのお話

人生における最適な選択とは何か?

どうしても人はそんなことを考えながら悩んでしまう。でも僕が大学生の時に聞いていたく感銘を受けた言葉がある。

人生における正しい選択などない。選択の後、その選択が最適になるように適切な行動を取る。すると後から振り返って、結果的にその選択が「正しい選択」となるのだ。

たしかこんなニュアンスだったかと。選択の時点で「正しい」も「間違ってる」もない。全てはその後の行動にかかっている。シンプルで当たり前かもしれないが、芯を食った言葉にとても共感したのを覚えている。

そう考えると、探究学舎に関わり続けると決断したことも、小学生授業でMF(メインファシリ)をやると決めたことも、それ自体に良いも悪いもない。全ては、スベリ倒したその後にかかっているのだ。


教室脇の小部屋にて

「なんでそんなつまんない授業するの!!!」と大号泣されたその後のお話。当時は今の探究の教室からほど近い小さなビルの2階と7階部分が教室だった(たしか2013年に移転したかと。後に1階部分も事務所スペースになった)。

この写真の脇(白い仕切りのある部分)にあるのが、当時のスタッフスペース。ここに授業の備品とデスクとスタッフの荷物とが寿司詰めにされていた。

この狭いスペースで、授業終わりに拳をギュッと握りながらうなだれていた僕に塾長が言った。

な!だから言っただろ!

うるせえ!「な!」じゃねえんだよ!なんだよ「な!」って。略すな略すな!そんなツッコミができるポテンシャルも気力も残っていない僕に続けて彼は言った。

だからな、木元。ボケたりして笑いを取ったりするのも大事なんだよ。

わかってるわかってる。それがわかってなかったからいまこんな事態になってるのはよーーーーくわかってます。そして塾長は立て続けにこう言った。

子どもがつまんないって言うのは子どものせいじゃない。全て授業してるやつの責任だ。

う…。この言葉は今でも頭と心に染み付いている。とかく「つまんない」なんて暴言のように感じるが、授業している側のスタンスと力量で結果は決まる。他責にするな。そう言いたかったんだと思う。


ファシリテーションは〇〇から学べ!

そうは言ってもだ。どうすれば面白い授業ができるようになるかなんて、皆目見当もつかない。わからない人は「わかるようになるための方法」がそもそもわかってない

当時の探究は研修制度もメンター制度も、世にいう「仕組み」的なものがほとんど存在しなかった。であるから、何かを習得しようと思えば、自分で見て学ぶしかなかった。ギルド制・徒弟制度とでも言うべきだろうか。

教育分野のファシリテーションを磨くには何を見て学べば良いのか?

いいか木元。もしもファシリテーションを学ぼうと思ったらある人物から学べ。そこに全てが詰まってる。

塾長は言い切った。ことここに至っては断定口調も気にならない。世界の複雑さを大切にするよりも、明日への指針が必要だった。でもある人物って誰…?そう思って数秒後、種明かしをしてくれた。




吉本興業HPより

それはな…明石家さんまや

なぜ口調までさんまなのか、そんな野暮ったいツッコミはやめておこう。でもお笑い芸人と教育…?面白いボケとか学ぶってこと?

たしかにそういう側面もある。さんまさんのテレビ番組で、笑わなかったことは確かに一度もない。「踊る!さんま御殿!!」しかり「ホンマでっか!?TV」しかり。だがそれ以上に大切な技術がある。それが「人の見立て」だ。

昔MFのファシリテーションで大切なことを言語化した時、ブレスト→抽象化の末「みたて」「しかけ」「しつらえ」「したて」と4要素がでてきた(それぞれ華道や茶道の用語からとっている)。ざっくりいうならば、教室や授業内容を「準備しる」ことが「しつらえ」。ピエロのように戯けたり、時にシリアスなトーンで喋るなどの「演じ分け」をするのが「したて」。授業の合間に台本にはない盛り上がりを見せた時など、あえてそこを広げて追加で質問を投げるなど、さまざまな「アクションを起こす」ことを「しかけ」と呼んだ。

だがこれらのスタンス・技術の根幹にあるのが「みたて」だ。これは言うなれば「観察を通じて、場や人に関する仮説を構築する」スキルと言えるだろうか。例えばケンカしている子どもがいた時、「ケンカはやめましょう!」と間に入ったり「なんでそんなことするんだ!」と怒ったり、とかく「しかけてしまう」人が多いのではなかろうか。でも大事なのって、「ケンカをしている2人はどんな感情なのか?」「どんな価値や欲求を大事にしているから揉めているのか?」「2人は何を求めているのか?」という個別具体的な仮説を立てることだ。見立ての精度が低ければ、何をしかけても効果は薄い。

どれほど経験を詰んだ人でも仮説が外れることは普通にある。仮説の精度が極めて高まることや、仮説を外した時の修正能力が高まることはあれど、「仮説を間違わない人」などいない。絶対にいない。そして塾長のような授業の上手い人は、前提「見立ての精度が高い(=人間洞察力が高い)」のに加えて、「仮説が外れた時にすぐ別の仮説に修正するスピードが早い」。そして同じぐらい大事なのが、「仮説を外したことをなんとも思わないメンタルの強さ」だ。

そしてこの3つを天才的なまでに身につけているのが、明石家さんま。

何と言ってもこの人のすごいところは、お笑い芸人や俳優が相手でも、アイドルが相手でも、素人相手でも。お年寄りだろうが赤ん坊だろうが小学生だろうが、老若男女誰を相手にしても面白いことではなかろうか。

「さんまの東大方程式」という番組がある。一癖も二癖もあるほぼ素人の東大生数十人を相手に、さんまさんは「ここぞ!」というタイミングで一番笑いを取れる人に話を振るし(そして戻すし)、「これは!」という話題で一番詳しそうな人にトークの相手を持っていく(そして時にはあえて頓珍漢な回答を引き出してこれまた笑いに変える)。少しでもズレが生まれたら白けてしまうこの困難な場を最も簡単に回してしまう。まさに明石家さんまは「見立てのプロ」であり、付言すれば「しかけ・しつらえ・したて」のプロでもある。だから67歳の今も移り変わりの激しいお笑い業界の不動のトップランナーでい続けられている。

そう、塾長は何も「話が面白くなる方法」を学べと言ったのではなく、「見立ての極意」を見て学べ!そういうことが言いたかったのだ。

その直後はというもの、1日7~8時間はテレビかYoutubeに食いついて、さんまさんのトーク番組を見続けた。どんな話題をどんな人に振るのか(逆に振らないのか)。ボケやツッコミのワードはどんなものを選んでいるのか?そもそもどういう時に、その空間にいる人は笑うのか?トーク番組以外にも漫才、コント、果てはアイドル番組まで、貪るように見まくった。

もし今僕の授業を受けて少しでも「面白い」と感じる方がいらっしゃるなら、それはきっとこの時の果てしない修行のおかげです。ありがとう、さんまさん。

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