【社史】探究学舎実録26~敗北を抱きしめて~
前回までのお話
人生は全て結果論。あの時僕は、探究学舎という場所を「辞めない」という判断をしたがゆえに、その後もアルバイトを続け、結局入社を決意し、もうすぐ入社6年目となる。
たまに「もしもあの時探究を辞めていたら、その後どんなキャリアを歩むことになったのか…?」ということに思いを馳せるのだが、少しも想像ができない。やはり「分岐点における選ばれなかった選択肢とその先」を考えるのは難しい。
串揚げ屋で決まったこと
探究でのアルバイトを続けると決めたものの、前回までの記事で書いた通り僕の仕事は少ない。ここでもっと頑張ることを決めたからには、今までのままじゃだめだ。そう、「変わらずに生きるためには、自ら変わらねばならない」のだ。
塾長は僕に幾つかの提案をした。
この時の僕は、提案を見てわかる通り「平常授業の小学生クラス」に一切コミットしていなかった。確か当時は月曜〜金曜で8つほどクラスがあったと思うが、1個も入ってなかった。MFはおろかGFですら入ってなかった。
僕が当時小学生講座の中で唯一関わっていたのが、探究スペシャル。しかも戦国英雄編というコンテンツのみ。それも単独MFではなく、塾長とダブルマイク(2人でMFを担当)。これだけ。
僕は小学生クラスには大変苦い思い出があり、正直気乗りしなかった(気が乗らない理由はしたの実録20をご覧あれ)。
しかもただでさえ前向きじゃなかったのに、当時はさらに小学生クラスに関わるモチベーションが低かった。なので率直に言えば、塾長からの提案は「受けなくていいなら受けたくなかった」。探究生活がかかるぐらいの背水の陣でなければ、きっと断っていた。
何が僕のモチベーションを下げていたのか?少しだけ時系列が戻った、2017年3月ごろにその理由があった。
そして事件は起こった
たしかあれは2017年春の探究スペシャル。3月下旬ぐらいだっただろうか。その時もいつも通り、塾長とダブルマイクで戦国英雄編に入っていた。
手前味噌だが、自分の探究学舎MFのキャリアの最初期から担当し、今までの授業回数はゆうに30回は超えている。今となっては、絶対外さない十八番授業。そう、今となっては。
当時は違った。1章分の授業はスライドが100枚前後。それを覚えて、次の展開に結びつくように話をふり、子どもたちの自由かつ奇想天外な意見やボケを拾う。1コマ90分、30人以上の子どもたちの集中や意識が切れないように緩急つけながら、1人1人の子どもたちの見せ場が生まれるように常に気を配る。今では呼吸をするようにできることが、当時は意識してもできないことばかりだった。
昔尊敬する先輩に、成長とは「できない→できた」の回数を増やし「できた→できる」へと恒常的になっていくプロセスだと言われたことある。この時はまだまだ「できない」が絶えず積み重なり、1回の授業でかろうじて1つ「できた」があるかないか。そんなひよっこMFだった。
何よりも苦手だったのが「子どもたちに合わせてボケたりツッコんだりする」こと。塾長は軽快に、まるでピエロのように戯けたり、造作もなく笑いをとったりしている。そんな姿を見ながら、
「こんなのは自分にはできないし、向いてないし、やりたくもない」
そう思っていた。もしかしたら、自分のキャラや性格に合わないと決めつけていたんだと思うが、自分の流派とは違うと塾長のスタイルを少し馬鹿にしていた。
それに塾長が常に断定口調で授業をしているのもいちいち気になってしまった。僕は性質的に「複雑なものを複雑なまま捉えたい」気持ちが強い。それがゆえに歴史学という学問に惹きつけられたんだと思うが、だからこそ「信長は常識破りだったんだ!」とか「武田勝頼はバカだー!」とか、そういう言い切ってしまうことに躊躇いがあった(一応補足しておくと、今では僕も一種割り切って断定表現を授業で使っているが、それでも「諸説あります」とか「かもしれませんね〜」とか、保留表現も多用している)。
「みたいな」
当時の僕がMFをやっている時の口癖だ。断定を和らげようという気持ちが強すぎたのだろう。昔自分の授業の様子を録画して見てみたら、20秒に1回は語尾に「みたいな」がついていた。塾長にもよく指摘された。でも本気で直そうとはしていなかった。これが自分のやり方だと思っていたから。
だがその信念は、驚くほど結果には結び付かなかった。全6コマの授業を半分半分で塾長と分担して、1コマ目、2コマ目、5コマ目は塾長が、その他の3・4・6コマ目を僕が授業した。もう子どもたちの顔つきが全然違う。塾長はやっぱり盛り上がりを作るのがうまい。子どもたちのキャラ付けもうまい。歴史にそこまで詳しいわけではないことを逆手にとって、人物や出来事の説明を「博士キャラ」に仕立てた子どもに任せることもよくあった。
3コマ目に僕が前に立つと、子どもたちの中から容赦ない声が聞こえてくる。
「え〜、やっちゃんじゃないの〜!?」
苦笑いを浮かべながら、そんな声を聞き流し授業をする。でもかたい。しゃべりのトーンは単調だし、子どものボケ解答も全然拾わないし、難しい単語を子どもたちにわかりやすく翻訳することもなかった(「身分制」とか平気で使ってた気が。。)。当然笑いも起きない。博士キャラの堰を切ったような「知ってる知ってる!!」という知識披露には、さらなる歴史知識をぶつけて封じるという大人気なさだ。
そんな調子だから、そりゃあ子どもからすれば塾長の授業の方がいいに決まってる。塾長の担当コマでは前のめりになっている姿勢も、僕の担当コマでは手持ち無沙汰に視線を時計に向けながら「授業何時に終わるのー?」と聞いてくる始末。
そういう時だ。事件が起こったのは。
人生最大のトラウマ
忘れもしない。あれは戦国英雄編の2日目の3時間目。つまり最終コマ。本来であれば一番盛り上がる時間帯。そのコマの主人公は「独眼竜」こと伊達政宗。子どもたちの間の人気も高い戦国武将。外すはずはない。担当は僕だった。塾長や授業に入ってくれたムラちゃんは教室の後ろの方で見ていた。
だがいつものような説明口調。今なら講談のような滑らかな語りで熱狂を生み出すところ。この時はさながら大学の大教室で繰り広げられる歴史学の講義のようだった。そんな時だった。
「はい!!!」
教室の一番前のテーブルに座っていた小学校2年生ぐらいの男子がものすごい勢いで手を挙げた。「そんな質問がくるようなスライドじゃないけどなぁ…」と思いながら、その子を当てて「どうしたの?」と聞いた。そしたら、その子…
泣き始めたのだ。
え?…え???
今なんか変なこと言ったっけ??
なんで??どうして????
頭の中がパニックになる中、その子は泣きながら、教室中に響き渡る声でこう言った。
「なんでそんなつまんない授業するの!!!」
みなさんは、泣きながら人に「つまらない」と言われた経験があるだろうか?生憎僕はなかったし、それ以来一度もないし、できることならもう二度と経験したくない。
心臓が冷や汗をかく、とでもいうのだろうか。教室中がシーンとなった。探究スペシャルは今も当時も、保護者の方がたくさん見学にいらしゃる。この時もなかなかの人数が教室の後方にいた。その保護者も含めて、場には静寂が漂った。ちなみに2人だけ笑っていた。塾長とムラちゃん。
正直この後、授業が終わるまでどんなふうに進めたのかはほとんど記憶にない。ただ、その子にはかろうじて「ごめんよ…」とか細い声しかかけられなかった。授業が終わった後、すぐさま控室に逃げ帰った。とてもじゃないが、生徒や保護者の視線の中教室にはいられなかった。
今だったら絶対そんなことはしない。というか絶対に「つまらない」なんて言わせないぐらいの授業をしてみせる。当時はそれが「できなかった」だけなのだ。
これが2017年の3月。「辞めたいです」と塾長に言ったのが4月。ほんとよく辞めなかったなと、改めてこの文章を書きながら思った。
そんな僕の苦い思いでも詰まった戦国英雄編の授業が、この度『スゴイ授業』というシリーズ第2弾として出版されることになった。
本文執筆を僕が担当した。伊達政宗の章を書いている時、心なしか胸がギュッと締め付けられるような感じがしたのは、気のせいだろうか。
さて。こんな大事件のあとだ。もはや小学生授業に入るのはトラウマと言っていい。でもあまりの悔しさ、恥ずかしさに「見返してやる!!」と思ったのもまた事実。
そんな青い僕に、授業が終わった後あるアドバイスを塾長は投げかけた。それが僕のMF人生の転機だったように思うが、それはまた次回にでも。
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