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【社史】探究学舎実録11~進路決定(後半)~

前回までの話

最近の無料オンライン授業のお話

社史そのものと直接関係ある話ではないが、弊社ではこの3週間(3月3日~20日)、すなわち新型コロナウイルス感染症に伴う一斉休校の期間、Youtubeで無料オンライン授業を届けていた。この期間のスタッフの努力は想像を絶するものがあり、これはこれでまたいつの日か社史に書きたいところだ。

かくいう僕も、ウィークリー授業でのコンテンツ作成が終わった瞬間に無料オンライン授業の作成に着手し、3月17-18日と2日連続で授業を行った。『明治立国編~日露戦争物語~』と題したオリジナル授業なので、もし興味があれば見てみてほしい。

こちらは前半のお話

こちらは後半のお話

そしてその最終日となる20日は『異人編~やっちゃん~』というテーマで、弊社代表・宝槻泰伸と探究学舎の歴史について授業を行った。大きく3部の構成で、宝槻泰伸の前半生を代表が、探究学舎の設立秘話を僕が(ちなみに30分全てお笑いパート)、そして軌道に乗りつつ苦難を超えて現在に至るラストを再び塾長がマイクを握った。

こちらがYoutubeの録画動画

僕が担当したパートは自分でスライドを作ったのだが、ものの数時間で完成した。無論、いちいちプロット(授業の台本)などを書くまでもなく、noteにせっせとまとめていた、この探究学舎実録をただスライド化しただけだからだ。まさかこんな形でこの社史が役に立つ日が来るとは…。「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」とはまさにこのこと。

初期の探究学舎の写真

今回塾長と授業スライドを作る中で、何枚も塾創立当時の写真を入手できた。せっかくなので、この場を借りてお見せしようと思う(その大半は上記の授業スライドに載っているが)。

三鷹教室

こちらが駅前に誕生した、探究学舎の最初の校舎である(現在も授業しているビルに新しい教室ができてからは、駅前校舎と呼んでいた)。おなじみの六角形のテーブルも、丸椅子も、Macもない。この空間で授業をして、仕事もしていた。

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これは駅前校舎での歴史探究ゼミの様子。授業をしているのは僕だが、おそらくこれは僕が大学生の時だと思われる。だが、高校時代に行っていた授業もだいたいこんな感じであった。

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これも上の写真と同じ授業。ホワイトボードに書いてある文字を見ると、テーマは「ミッドウェー海戦」だったと思う。前回も触れたが、当時の授業はスライドなど1枚も使わず(というより、当時の僕にはそのようなスライド作成能力など微塵もなかった)、基本的にはホワイトボードを用いて講師が喋り、参加者が随時ディスカッションす、といった感じであった。

これもまた余談だが、当時の教室は「普通に土足」であった。今となっては考えられないが、当時はそもそもそんなに人数の多い塾でもなかったし、靴箱をわざわざ儲けるだけのスペースもなかったので、土足以外の発想すらなかったように思う。

ともあれ、こんな感じで僕は自分の好きな歴史の授業を作り、それを塾生に行い、随時自分で受験勉強し、修行の一環だと思って下級生に勉強を教え、そしてせっせと探究学舎に月謝を支払っていた。まぁべらぼうに高い月謝だったわけでもないし、これはこれで楽しかったので、取り立てて不満はなかった。むしろ、自分の(曲がりなりにも一生懸命)作ったコンテンツを喜んでもらえる心地よさの方が圧倒的に上回っていた

始まった受験、決まった進路

楽しいだけが人生ではない。そうこうしているうちに、僕にも受験の季節がやってきた。2012年12月~2013年2月に至るこの期間、これといって面白い話があるわけではない。受験直前の1月からは高校もないので、ひたすら探究に来ては赤本を解いていた。ただ、僕の受験エピソードを1つだけ述べたいと思う。

たしか自分が受験する際、私大を4大学7学部分願書を出したはずだ。無論本命は早稲田大学だったので、4つも学部を受験することになった。とはいいつつ、浪人だけはしたくなかったので、滑り止めなども含め7つ受験することになった。

ただここで問題が。自分が受ける学部の試験に「英作文」があったのだが、これがまた僕にはさっぱりであった。かといって、塾長もこうした専門的受験指導のプロではない。普通の予備校に行かなかった弊害がこうしたところに出てきてしまったのだが、ここで救世主が現れる。塾長は僕にいった。

宝槻『英作文はうちの奥さんに見てもらいないよ』

こうしてありがたいことに、英作文は英語ペラペラな塾長の奧さんに見てもらうことになった。現在では探究学舎の取締役として、探究の人と組織を支えている宝槻圭美さんである。

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探究学舎取締役・宝槻圭美

こうして本命受験直前の2013年1月から約1ヶ月間、僕は圭美さんに英語を習うこととなった。この時から約3年後には圭美さんが取締役として探究学舎にコミットし始め、さらにその2年後には僕が新卒で入社することになる。まさかこの探究学舎という会社で一緒に働くことになるとは、当時の僕も無論、圭美さんも想像すらしていなかっただろう。幾度となくこの社史で使っているフレーズだが、人生とはわからないものだ。

で、肝心の結果である。結論だけ述べれば、僕は第一志望の大学に辛うじて合格した。4つも受けた早稲田大学の学部だが、うち2つが合格したのだ。ただ残念なことに、第1志望としていた政治経済学部は不合格であった。しかし、たとえ第一志望の学部に落ちたとしても、早稲田に受かった時の感動は非常に大きかった。

合格したのは、教育学部と社会科学部の2つ。教育業界にここまでどっぷり浸かってしまった今となっては、「本格的に教育学を学んでみたかったなぁ…」と思うことがないこともない。だが、当時の僕は最終的に社会科学部に進路を決める。もしかしたら聞き馴染みのない学部名だと思う方もいるかもしれない。僕自身も受験するまでさっぱり聞いたことなかったが、いろいろ調べると著名な出身者が何人かいた。おそらく一番有名なのは…

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この方ではないだろうか(写真はwikipediaより)。そう、悪魔も輩出する学部なのだ。そんなことはさておき、僕は晴れて大学生となった。春からはあれほど憧れてやまなかった早稲田に通うのだ!そんなテンションマックスな僕に、塾長は最大限のお祝いをくれた。そりゃそうだ。創塾以来はじめての卒業生が、一応そこそこの受験実績を残したのだ。そんな僕に塾長は言った。

宝槻『木元、なんかバイト始める予定あるの?』

あれれ、この流れは…。なんだか不穏な空気を感じつつも、まだバイトは探していない旨を伝える。すると、塾長は言う。

宝槻『うちでバイトするよな?』

たぶんこんな感じの表現をしていたような気がする。たしかに、自分が塾生として通っている最中から、卒業後も関われば?的な誘いが皆無だったわけではない。がしかし、まるで僕がバイトしたいかのような表現。やや迷いを見せる僕に、塾長は畳み掛けた。

宝槻『今まで支払った月謝、取り戻したいだろ?』

やられた。完全にやられた。普通の予備校に通って、ただ授業を受けていたのであれば「月謝を取り戻す」などという発想は出てこない。しかし僕は違う。月謝を払ったにも関わらず、授業を受けるどころか「人に教えていた」ではないか!そりゃあ普通の人間であれば、「取り戻す」という選択肢にオールインである!

木元『や…ります。。。』

こうして僕の5年にも及ぶ、探究学舎のアルバイト生活が始まった。ただし、僕自身は探究学舎のアルバイト第2号なのだ。では第1号のアルバイトとは一体どんな人物だったのか?少しだけお話ししたいのだが、これはまた次回に。

編集後記

塾長はよく自身を「織田信長的カリスマリーダー」と自称しています。だが実際は、「豊臣秀吉のような人たらしなリーダー」なんだと思います。でなければ、僕含めてここまで多くの人が巻き込まれていないはず(笑)

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