見出し画像

『永遠の四一』著者の大田祐介先生が来阪!

以前、noteに福山歩兵第41連隊に所属した祖父のことを書いた。
手元に日中戦争に従軍したころのアルバムが3冊あり、もっと祖父のことを知りたいと思っていた時、福山市議会議員の大田祐介さんが書かれた『永遠の四一』に出会った。

この本に収録されている近藤伍長の従軍記に藤川一等兵が登場し「祖父ではないか?」と書いたところ…

なんとこの記事を著者の大田先生ご本人がご覧になって、光栄にも直接ご連絡をいただいたのだ。
ちょうど大阪へ来られる予定があるとのことで、お言葉に甘えてお時間を頂戴してしまった。

「これは演習地があった原村で撮影されたものですよ。」「ここに写っているのは万宝山記念碑。樋口季一郎が連隊長時代に建立したもので、今はもうありません。」と1枚1枚の写真を見ながら丁寧に解説して下さった。

そして、近藤伍長の手記に登場する“藤川一等兵”の正体について。
この手記には下の名前まで書かれていないのだが、実は近藤伍長の上官にあたる中隊長のものにはフルネームで登場すると大田先生に教えていただいた。結果は、祖父ではなく別の藤川さんだった。
やはり福山には藤川姓が多い。連隊には2,500人~3,000人が所属しているため、何人も藤川さんがいたのだろう。

そして日米開戦後、唯一撮られた祖父の写真(1943年ごろ撮影)を見ながら「いくつもの戦場を潜り抜けてこられたベテラン兵士の顔をされていますね。」と敬意を込めて言って下さった。

『聯隊史』のようにまとめられた資料がほとんど無かった福山41連隊。大岡昇平の「レイテ戦記」などで、1944年11月1日からのレイテ島・脊梁山脈でのアメリカ第1騎兵師団との戦闘で、容易に敵の進出を許して逃走。「ほとんど戦っていなかった」とされていた。
しかし、大田先生はアジア各地の戦跡に足を運び、脊梁山脈で日本陸軍のヘルメットや飯盒、軽機関銃を発見。
さらに米軍側の一次史料を解読すると、この場所で激しい戦闘が行われたこと、日本兵の犠牲者の認識票から福山連隊が布陣していたことなどを突き止めた。
圧倒的な火力で攻め寄せるアメリカ軍を相手に、福山連隊は最後の最後まで戦い抜いたことを証明し、名誉を回復したのだ。

そのことについて祖父に代わってお礼を伝えると…
「ぼくはいつ死んでも良いんです。死ぬのは怖くない。なぜかと言うと、きっと福山41連隊の英霊たちが天国で『よう書いてくれた!ようやってくれた!』とぼくのことを拍手で迎えて下さると分かっているから。」
と大田先生は優しく微笑んだ。

これから先生のアドバイスに沿って祖父の足跡を辿ろうと思う。
「おじいさんからのメッセージが藤川さんに伝わると良いですね」と温かい言葉をいただいて、先生を見送った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?