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どんべえの四十九日:認められないことを認める


四十九日の法要

早いもので先日、どんべえ四十九日の法要を執り行いました。

深大寺では毎週水曜と日曜の午後3時より、他のご家族との合同法要を行なっていて、それにパートナー、元妻と3人で行ってきました。

仏教における四十九日とはどういうものか、これまで全くと言っていいほど興味がなく(すみません)、もちろん知識もゼロだったのですが、この日はお経を唱えてくださった僧侶の方の説法を真剣に聞かせていただきました。

仏教の世界では、この「四十九日」をもって故人の魂は御仏の元へと向かうわけで、いわゆる「喪が明ける」のもこのタイミング。残された者も、これを機に様々なことにケジメをつけるというか、気持ちの整理をつけるべきとされているようです。が、正直なところ、そんな気分にはまだまだなれそうにないです。

いつまで続く低空飛行

いっときのような「自責の念」や「後悔」みたいなものは幾分減ったものの、ずっと気持ちが沈んだままというか、低空飛行し続けているような感覚が続いています。

特に辛いのが朝。起きるとまず、「今日もまたどんべえのいない1日が始まるのか……」という軽い絶望感を味わいます。相変わらず夢には全く出てこないし(もう半分諦めました)、いくら耳をすましても気配はしない。「そりゃそうだよな」と自分に呆れつつ、祭壇に飾られたどんべえの写真を見ながらお香を炊いています。お線香は、仏様の食べ物なんですって。それも今回の法要で知りました。

新たな日課となった、毎朝20kmのサイクリング、もしくは1時間程度の散歩は続いており、周りの人から「なんでそんなに黒いの?」と引かれるくらい日焼けしました。

時間があれば筋トレ&サウナ、週末にはスキンダイビング講習に通っているのも、間違いなくどんべえがいなくなってしまったことが関係してます。

なんていうか、自分の身体に負荷をかけることで、生きている感覚みたいなものを掴もうとしているのかもしれない。それって一種の自傷行為だよなぁ(笑)。

「受け入れ難い事実」を受け入れる

「傷」といえば、生前どんべえに思いっきり引っ掻かれた時の傷跡が、自分の右太ももの内側に微かに残っていて、お風呂に入って体を洗うたび、この傷が少しずつ薄くなっていくことに気づくのも寂しい。

それと、どんべえの「死」をどう受け止めるのかが、近しい身内であってもそれぞれ違っていて。そんなの当たり前のことだと分かっているのに、勝手に取り残されたような気持ちになっている自分がいます。

そう、何を隠そう僕はまだ、どんべえがこの世にいないことをまったく認めてないんですよね。

もちろん、頭では理解しているつもりです。この腕の中で彼を看取り、体を清めてあげて、手厚く葬儀をしてもらって骨まで拾ったわけですから。でも、心と体が現実にまったく追いついていないんです。

要するに、「いなくなったから苦しい」だけじゃなくて、いなくなったことを受け入れようとしてないから苦しんでいる状態

それに気づけたからと言って、いますぐ現実を受け入れられるわけじゃないんだけど、「受け入れようとしていない自分」を受容できたら(ややこしい・笑)、少しは楽になれる……かもしれない。

まったく、往生際が悪いのにも程があるよな、どんべえ。向こうでさぞかし呆れてるだろうよ。

ニーバーの「平安の祈り」

そういえば以前、Dragon AshのKjにインタビューした時に彼は、「変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を我に与え給え」というラインホルド・ニーバーの「平安の祈り」の頭文字3つをタトゥーにして身体に刻んでいると言っていました(彼のソロ曲「Colors」にも引用されています。

インタビュー当時、自分もいろいろあって落ち込んでいたから、その言葉がとても心に響いたのですが、今こそまさに思い返す時だなと。

自分の感情と記憶を大切にしつつ、手放すべきことは手放す。それが今後の課題ですね。

「そうなんだ、がんばれよ〜」

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