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V・ファーレン長崎と私

Jリーグの企画 「 #J2推し with Jリーグ」に応募しています。

#J2推し だと?別にJ2を推しているわけではない。今、V・ファーレン長崎がいるカテゴリーがたまたまJ2というだけだ。だがそこは毎年、世界中みても珍しいほどの混戦となるのだよ。相手が自分達より上位のチームであっても普通に勝つチャンスがあり、下位のチームであってもあっさり負けたりする。毎年毎年、今年こそ昇格するのではと思ってしまう。毎週がハラハラドキドキ、とても面白いリーグだ。そうそう沼もあるぞ。え、それって推しているのか?

私は、2005年にV・ファーレン長崎の創設に関わった。正確にいうと既にチームはできていて、前年に県でチャンピオンになった「有明クラブ」が「V・ファーレン長崎」と名前を変え、その年の初春から戦いの場を県リーグから九州リーグに移していた。ただしチームがあってもJリーグには行けない。チームを運営する株式会社がなければ、どんなに強くてもJクラブとして認められないのだ。2006年に設立した株式会社V・ファーレン長崎。それを2005年から準備し、中心メンバーとして作ったのが私だ。

きっかけは偶然だった。当時トヨタ自動車の社員だった私は、インドへの出張途中にトランジットで立ち寄った空港のラウンジで、インターネットに流れてきたニュースを何気なく眺めていた。そこに偶然出てきたのが「長崎にJリーグを目指すチームができる!」という見出しだった。私の地元、長崎。サッカーは強い。島原商業と国見高校で何度も全国制覇をしている。お隣の佐賀には「サガン鳥栖」があった。しかし長崎にはそれまでJの気配すらなかった。

「これだ!」その時スポーツビジネスの世界に進みたいと思っていた私は、このニュースに飛びついた。新聞記事の最後にあった連絡先に早速メールを打った。しかし期待に反して「間に合ってます」と、そっけない返事が返ってきた。

「今度のGWに帰省します。15分でいいので時間をもらえませんか?」そう嘘をついて強引にアポイントをとった。今白状すると順番は逆だった。そのアポがあるから帰省した、が正解となる。後で聞くと「長崎にJクラブができる」というニュースをみて、興味をもって連絡してきた輩は数多くいたそうだ。急にたくさんの連絡がきて、事務局の人は連絡してきたみんなが怪しい人に見えたらしい。ただ、いろんな事を言う人はいたけど、実際に会いに来た人はあなた一人だった、と。

当時、チームの拠点は島原半島のとある田舎町にあった。長崎出身の私でさえ初めて訪れるような、ちょっと寂しいところだ。私はトヨタ自動車を辞め、島原半島に引っ越した。「一緒にやろうや」あの時、故小嶺忠敏先生と交わした握手は一生忘れられない。

2005年から2007年のシーズン終了までのおよそ3年間、地元長崎で働いた。収入はトヨタ時代から数分の一になったが、誰もやったことのないやりがいのある仕事はとても魅力的だった。私は初代取締役として会社組織の構築と主に収益を稼ぐところを担っていた。もともと無料だった九州リーグの公式戦を有料試合とすべく入場料を設定したり、ファンクラブがいいのか後援会がいいのかと頭を悩ませたり、スポンサーを探して車で県内をぐるぐる駆け回ったりした。睡眠不足で眠たくて、運転がたまに危なかった。会社はみんなが頑張ったおかげで3期連続の黒字だった。怒涛の日々、産みの苦しみ。V・ファーレン長崎は自分にとって、まさに子どものようなクラブである。

私がV・ファーレン長崎を離れたあと、クラブは経営危機などの紆余曲折を経た後に、ジャパネットグループの一員となった。もう心配しなくてもいい。しばらくは潰れることもないだろう。子離れのタイミングである。子離れできない親はカッコ悪い。でもなんだかんだいって、やはり何かと気になってしまう自分がいる。

今は毎週末DAZNで観戦し、関東近辺でアウェイゲームがあると埼玉の自宅から長崎ナンバーの車で応援に駆けつける。これがサポーターの気持ちなのか、と今更ながらに気づいたりして。ただ、どんな試合展開になろうともブーイングはできない。だって…子どもだから。

2019年天皇杯。負けたけどナイスゲームだった

写真は2019年の天皇杯準決勝「鹿島アントラーズ vs V・ファーレン長崎」。長崎側に座っているので、遠くに見えているサポーターの色は鹿島の赤だ。

#J2推し
#V・ファーレン長崎


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