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迷わぬ羊#8 「ひつじが八匹」

 なりたいけど、なれないから、嫌だった。

 たとえば、向上心のある努力家の皆様。偏屈な私にはなれっこないからそうやって、いかにも頑張ってます!!!炎!!!みたいな熱血家たちを冷ややかに見下そうとしてきた。

 もういい大人だし、頑張り屋さんのアピールなんて恥ずかしい。はいはい頑張ってるのはわかったから、努力の課程をパフォーマンスにしないでくれ。どこかで覚えた共感性羞恥が汗をかく。

 だけどもちろん、私の頑張りはなるべく多くの人に見つけていただきたいのです。それはそうでしょ?自らアピールなんてダサいまねはしないけど、みんなに気づいてもらえるべき。本気でそうだと信じていたのだ。

 あのねえ、傲慢な私に教えてあげる。それって、何様の了見よ?渡る世間を砂糖菓子だとでもお思いで?人生はそんなに甘くないし、私が思い込んでるほどみんなは私に興味がない。

 その証拠に、ほらね。努力家になれなかった私は、日陰な精神のままで生きている。人生の甘さで胸焼けしてみたかった。

 なりたかったものなんて、死ぬほどある。他にもいくつか並べようと頭に浮かべてはみたものの、言語化するのを憚はばかられるようなものばかりなので割愛せざるを得なかった。なりたかった。けど、なれなかった。

 しょうもないプライドが手伝って、私は何者にもなれなかった。特別に選ばれなかった、ただの28歳だ。

 こういう話をすると、まるで、虚栄心からの奴隷解放宣言のように思われるかもしれない。小林羊の尖りプレイもオワコンか、といにしえのネットスラングを浴びせられるかもしれない。

 だけど、わかってほしい。ちがうのだ。

 この長々とした小林節は、自分に向けての言い訳演説なのである。満足するまでじゅうぶんに御託を並べないと、じぶんが行動するのをゆるせない不治の病を患っているのだ。

 かつて、なりたくないと思っていた自分になってもいいように、言い訳している。なっても、いい。

 そうなったじぶんをゆるせ、私。

 さて、狭量においては定評のあるこのわたくしが、何を許すのかといいますと。

「小林さん、今日はまた一段とかわいいですね〜」

 あああああああだれか、この、ゆとりな隣人をどうにかしてくれ。彼女に関しては、こちらが許しすぎたのかもしれない。

 側はたからすればにこにこ笑って上司を褒めるかわいい部下にも見えるだろうが、当事者の目にはにやにや笑って上司をいたぶろうとしているかわいげのない部下に映っている。

「勤務中に私語とはいただけないですね」
「失礼ですが小林さんって、コミニュケーション不得手なほうですか?」
「いまさらそれに気付いたなら、羽野さんも素質がありそうですが」

 領収書の数字を合わせながら、ラリーのごとく言葉の球を打ち返す。普段の出勤着よりも華やかだという自覚はあるので、なんとなく、そわそわした。

 何を着て出勤するか決められなくて、朝からベッドのうえに洋服たちを散らかした。綺麗好きな私にとって過度のストレスがかかるような自室の散らかりようであったが、時間がないのでそのまま家を出た。そのことが、やや気掛かりだ。

 クローゼットのほとんどの服を試した結果、けっきょくは最初に手に取ったものを選んだ。ふんわりした素材で襟元にリボンがついている、新しいブラウス。脚がすらっと長く見える、タイトスカート。華金の権化のようなOLファッションに、思わず頭を抱えて蹲った。

 どうせ私は凡人なので、こういう、なんだか男の人が好きそうな格好もしたりする。意外と似合ってるよ、と、自分自身の背中を強く押した。

「夜に予定があるんですか?」
「まあ、そんなところです」
「お洋服、似合ってますよ。小林さん、ちょうかわいいです」

 金曜日に浮かれて、かわいい服を着た。そんな私をゆるせ、私。

 手首に巻いた時計に視線を投げた。なにがなんでも定時にあがると決めている。こういうときに限って仕事が立て込んでくる残業コースはフィクションにおける定石だったりするけれど、空気を読まない私は徹底的に回避した。

 どうせ道枝くんは、時間通り、約束通りに現れる。百発百中を当ててくるというよりも、一発たりとも外さないのが道枝寧路というひとだ。

「すみません、お先に失礼します」

 正直にいうと、ちょっとだけ、やるべき仕事を残してしまった。ごめんね、来週のじぶん。許してほしいことばっかりだ。

 だけど、知らないふりをして、もう我慢ができないので席を立つ。羽野さんが「リップ、塗り直してからがいいですよ」と挨拶に余計なひとことを添えてきた。

 彼女の言いなりになるのはくやしいけれど、今日の私はまんまと化粧室に立ち寄った。そして、艶のあるグロスを重ねて塗った。

 やたらと時間の進みが遅いうえ、あんまり仕事に身が入らなかった。こんな思いをするのは今日限りでじゅうぶんだ。

 メイクを整えた後、エレベーターに乗り込んだ。会社の入り口がある一階まで降りると、約束のロビーがある。

 円形のソファベンチがいくつか置かれていて、そこは社内の人間の待ち合わせとしてよく使用されている場所だ。まさか私が、それを使う日がくるとは思わなかったけど。

 金曜日なので、これから飲みに行くための数人がソファで誰かを待っていた。

 弊社は社内恋愛を禁止しておらず、なんなら推奨気味にあるけれど、ここで待ち合わせをするというのは下衆の勘繰りや下世話な話のタネにされること間違いない。

 そのため多くの男女が会社の外で合流していたし、社内からふたりで並んで歩くのはむしろロマンスを含まない関係性だと主張するようなものだった。それこそ、私と松葉さんのように。

 いずれにせよ、部署も入社時期も異なる男女がわざんざロビーで待ち合わせるなんて、〝どうぞ噂してください〟と餌を撒いているようなものである。

 そして、おそらく小林羊は、そういった行為を毛嫌いしているように他者からは見えている、と自分では思っていた。

 予想通り、道枝くんは先に着いて待っていた。脚を組んで気怠げにスマホを触っている姿は、彼の潜在意識にある、世の中をなめたかんじがよく現れている。

 やっぱり、遠くから見つめる道枝くんはとてもよい。俗世的な言い方をすると、ビジュアルが尊い。美少年とふるさとは、遠きにありて思ふもの。

 近くを歩いていた女性社員たちが「かわいー」と話していた。たまに、上司にあたる男性社員たちからセクハラを受けていて、それを鮮やかにかわしている。すっかり慣れているらしい。

 数メートルの距離からしばらく見惚れていると、ちょうど顔を上げた彼と視線が絡んだ。道枝くんはスマホを鞄にしまって、すっと立ち上がる。

「おつかれさまです、小林さん」

 彼の待ち人が私であると晒されて、退勤しようとしていた社員たちが一斉に注目を浴びせてきた。

 ああもう、こんなの、透け素材のブラウスを着てきた理由がまるわかりじゃないか。私が逃れるように俯いてしまうと、いつのまにかそばに歩いてきていた道枝くんが頭上で笑った。

 道枝くんと小林さん?え?どういう関係?いやでも、あの距離は、あれでしょ。付き合ってんの?まじ?うそ、ショックなんだけど。

「あの、はやく、居酒屋いきましょう」

 こそこそと響く声たちに耐えられなくなって、挨拶よりも先に私のほうから促した。

 それなのに道枝くんは平然としていて、さらに親しいことを宣伝するかのように顔の距離を近づけて話してきた。

「いいじゃないですか、見せつけましょうよ」
「私、こういうの、苦手です」
「うそつき」

 注目を集めることに慣れ切っている彼は周囲の視線などなんとも思っていないようで、私だけをまっすぐに見つめてくる。

 私の反論を即座に否定し、まるで私のことなら何でも分かりきっているみたいに、道枝くんは意地悪く笑った。

「じつはロマンチストなところがあるし、何より自己顕示欲の人である小林さんなら、かわいい後輩の道枝と仲の良いところを見せつけるのもやぶさかではないはずです」
「ちょっと、」

「過剰な自意識の高い塔に、自ら閉じ込められてるお姫様。さあ、お手をどうぞ?僕が連れ出してさしあげます」

 わざとらしくひらりと返して、仰々しく右手を差し出した。ルックスも相まって、その姿はさながら王子様だ。

 きゃぁぁあ、とまわりから歓声が上がる。ひとりひとりは抑えめな声量なのだけど、さっきよりもどんどん増えたギャラリーのせいで、漏れた悲鳴のハーモニーだ。

 だけど、せりふは、ちっともお伽話なんかじゃない。こんなことを言われたら、心優しきシンデレラだって、発狂してガラスの靴を粉々にしちゃうと思う。

「どうして道枝くんは、ときどき私を傷つけたがるの」
「本質の槍で刺されるのって、きもちよくて、くせになるからです。そういう痛み、好きでしょう?」

「私のこと、変態だと思ってる?」
「まあ、思ってますね。あなたが普段やってることは、精神のリストカットです」

 あんまりにも失礼の連続なので、私は片方の眉だけを持ち上げて「はあ?」と唸った。語尾を上げた私の返答をどう捉えたのか知らないが、道枝くんは少し考え直したように言葉を選ぶ。

「お姫様っぽくいうと、自ら呪いの針にぶっ刺されていますよね」
「それ、お姫様っぽく言い直す必要ありました?」

 それなのに道枝くんは平然としていて、さらに親しいことを宣伝するかのように顔の距離を近づけて話してきた。ああ、もう、どうしようもない。このひとは、紛れもなく、道枝くんだ。

 私のことを分かりすぎている。ほんとうは明確な形でちやほやされてみたかった私の自己顕示欲も、そのくせ、そのために自己を表現したくない私の狡猾さも、けっきょくロマンチックが好きな安っぽさも、ぜんぶ、ぜんぶだ。

 それに、自分で閉じ込めた過剰な自意識の檻、いや高すぎる塔の中から、だれかに連れ出してもらいたかったこと。

 今ここにいる私は、まさに、それだ。私が、ほんとうはなりたかったもの。でも、なれないからって諦めて、きらいだと思い込もうとしてたもの。

「どうして、そんなに、知ってるの」
「どうして?むしろなぜ、小林さんはそんなことも分からない?」

 小馬鹿にしたように鼻でわらう道枝くんは「単純なことでしょう」と前置きしてから大切そうに言葉を落とした。

「あなたのことが、破滅的に好きだからですよ」

 それは、暴力的な言葉とは裏腹に、空気に馴染むやさしい音色だった。私だけのために選んでくれた、道枝くんの声だ。

 愛の告白に添える形容動詞として〝破滅的に〟は、いかがなものか。だけど、なんだろう、これ以上なくしっくり落ち着くような気もする。

 いつのまにか、仕事終わりのギャラリーたちが囃し立てるのも気にならなくなっていた。松葉さんらしきひと、アラキレイらしき美女、羽野さんらしき女の子。遠くに知り合いの顔も見えたけど、不思議とそこに意識が結びつかないでいる。

 退勤したってここは会社だ。決して、好き勝手していい場所じゃない。いや、でも、いま私たちがしていることは、ただ、ロビーのソファ付近で会話をしているだけのこと。大罪などは犯していない。

 ただ、私が、私らしくないだけだ。現実ごときがこんなにドラマチックでよいのだろうか。不安になる。

◾️

 華金モードで無礼講な社員たちからふざけた言葉をかけられながら、小走りでいつもの居酒屋に逃げ込んだ。簡易的だけど、半個室みたいな仕切りがあるので安心する。

 きょうも安定してBGMはすばらしく、おもちゃ箱みたいなチップチューンが流れていた。こちらのテンションとまったく不釣り合いなのが最高だね。

「僕が勝手に注文していいですか?」
「おまかせします、信頼できるので」

 道枝くんはジャケットを脱いでハンガーに掛けたあと、席について袖をくるくると捲っていく。外を歩いてきたせいか、涼しげに見えるけど暑がっているらしい。男っぽい仕草が予想外に似合うから、どきっとする。そんなこちらの心拍数などお構いなしに、彼は注文のタッチパネルを操作し始めた。

「ん、どうしよう、よし!うどん」
「え?」
「うどん、どう?」
「まさか、逆さま、、?」
「どうも、軽めの炭酸頼めるか、でお馴染みの道枝です」

私のことが破滅的に好きらしい道枝くんは、ミントブルーのネクタイを片手で緩めながらてきとうなことを言っている。いまのところ、まったく破滅しそうにない。破滅されては困るので、それでいいけども。

 そうこうしながら手際良く注文を終えたらしい道枝くんが、正面に向き合って口火を切った。

「小林さん、まず、僕から怒ってもいいですか」
「え、シラフで部下から怒られるの?」

「どうして、小林さんから、連絡してくれなかったんですか」
「まって、それはこっちも言いたいです。道枝くん、どうして連絡してくれなかったの?」

 思わずすぐに返してしまう私に、彼はやれやれと深いため息を吐いた。怒ってる、から、呆れてる、にモードが変更されたらしい。

「むしろ、あの状況で僕から連絡が送られると?ほう、それだけ甘ければ人生なめたくもなりますよね」

 そのタイミングでハイボールが2杯運ばれてきて両方とも受け取った彼が、ひとつを私の前に置いてくれた。

 だけどすぐに乾杯することはなく、とりあえず今週の精算を行うと決めている。でないと、せっかくのハイボールが不味くなる。

「はいはい、わかりました。それに関しては私が悪かったと認めます」
「では、謝罪を求めます」
「いや、その前に、私も怒りたいことがある」

 ずばっと挙手をすれば、道枝くんは長い睫毛を伏せるように目を細めて「どうぞ」と話を促した。ふたりでいるときの彼は、かわいいよりもうつくしいの割合が大きい。

「どうして私の見てるところで、羽野さんの誘いを承諾したの」
「だめでしたか?」
「だめでした」
「ちなみに、どうしてだと思うんですか」

 しかも、質問で切り返された。元来決して気が長いわけではないし、これにちょっと神経を逆撫でされたので、早口で捲し立てるように言い返す。

「いろいろ考えましたよ、大人だから私以外ともふつうに飲みくらい行くだろうし、ていうか、もしかしたら私が特別ってわけでもなくて、あと、ほら、金曜日になにか幻滅したとかもありえるし、」
「ほう」
「で、正解は?」

 こちらだけがひどく熱されていて、相手の低い温度感がとても癪に触るけど、まあ仕方ない。道枝くんは私の問いに対して、本気で考え込んでいるようだった。

「正直にいうと、解答欄は空欄です」
「は?」
「野暮ですがあえて言葉にするならば、まるっとそのままのことをあなたに思われたかったから、でしょうか?」

 はああん?いや、でしょうか、と聞かれても?知らないし?こっちが訊いてるんですけど?

 煽りのテンションで脳内に文字がたくさん浮かんでくる。そんな私と対照的に、悩めるようにゆっくりと言葉を選んでいく道枝くんだ。

「重たいって思われたくないし、いちど寝たくらいで彼氏面するな、とか思われたくないじゃないですか」
「そんなこと思わないけど、」
「とりあえず嫌われたくないんですよ。僕、小林さんのことだいぶ好きなので」

 〜〜〜〜っ、、ず、ずるくない?!?!もういやだ、このひと。私が先に破滅する。かわいいは正義なので、すべてを許さざるを得ない。

「理屈はどうあれ、私がさみしくなったので、謝るべきではありますね」

 はやくハイボールも飲みたいし、さくっと決着をつけることにした。そんな気持ちで流すように言っただけなのだが、道枝くんが逃さずに拾いあげてしまう。

「小林さん、さみしくなってくれたんですか?」
「なんか、喜んでる?負の感情フェチ?」
「そんな悪趣味はないはずですが、たしかにめちゃくちゃ喜んでいます」

 明らかに声のトーンが高まってるし、目尻もあまく緩んでいる。これがちまたで噂にきく、人の不幸は蜜の味ってやつなのか、あるいは。

「これは、謝り甲斐がありますね。たいへん申し訳ございませんでした、ははははは」
「高笑いが漏れちゃってるけど」
「すみません、つい、うれしくて」

 いっきに機嫌が良くなったかりそめの美少年は、ふふふ、と上品に笑ってくれた。軽く握ったような右手で口もとをおさえる仕草がうるわしくて、謝罪しながら笑いだすサイコパスにはとても見えないし、見えないからこそ怖い。

 茶化した空気に乗り込んで、こちらも「まあ、私もごめんね」とまた早口で謝った。

「小林さんとお酒飲むの、楽しいが過ぎます」
「まだ飲めてないけれど」
「では、そろそろ飲みましょうか」

 うむ、とふたりで頷き合って、冷えたジョッキを持ち上げる。黄金色の液体が氷を濡らして、ああ、なにはともあれ金曜日。

 大人なら、何百回も繰り返したはずの動作なのにいまだに力加減がへたくそで、ごちん、と鈍い音を立てて分厚いガラスどうしがぶつかった。

「乾杯」
「完敗」

 冷え切ったハイボールが喉をぎゅるっと通っていく。

 くたばれ、世界。そうやって、毎日飽きずに呪いをかけて、毎日懲りずに睨みつけている。だけどね、世界。いまだけ、ほんと、今この瞬間に限るのだけど、待ってくれ。なんだか笑っちゃうほど最高なので、いま世界がくたばると、私が困るのだ。

◾️

「ところで、道枝くんが話したいことってなんだったの」

 いつのまにか夜が進んで、私たちの思考も溶けてきた。そんな時間。

「いっぱいあります」
「いっぱいって、いくつ?」
「ちょうど日本の人口と同じ数です」
「ぴったり?」
「ぴったりですよ」

 おつまみのフライドポテトは、疲れた身体に塩分が心地よい。うどんは頼まれていなかった。かわりに、私のお気に入りのだし巻き卵がある。ちまちまと食事をしながら、いかにもお酒の場面らしく生産性の無い会話をしていた。

「おめでとうございます。いま、日本のどこかでひとりの赤ちゃんが誕生しました」
「おめでとうございます。ちょうどいま、話したいことがひとつ増えました」

 
 そんな呑気な会話をぶった斬るように、いきなり残りのハイボールをごくごくと飲み干した道枝くんが口を開いた。

「先週の、夜の話をします」
「端的にどうぞ」
「どうして僕のこと、置いて帰っちゃったんですか」
「それは、えっと、いたたまれなくて、つい」

 ほろ酔いな彼は桃色に染めた頬を膨らませて、端的に返せない私を責めるように睨んでくる。かわいい視線から逃れるように、私は俯いた。どうせ、俯いてばかりの人生だ。

 しかし、さらに責め立てるように、道枝くんは棘のある口調で続けていく。

「めちゃくちゃ凹みました」
「ごめんなさい」
「次の機会は、ぜったい隣にいてください」
「次の機会が、あるんですか?」

 さらさらと流れていた川を堰き止めるように、私の問いにたいして道枝くんが話を止めた。それから、ゆっくりとていねいに言葉を選んでいく。

「僕としては、あるとよいなと思うのですが、小林さんはどのようにお考えですか」

 これは、わざとだ。わざと、私に決定権を委ねている。

 素直に従うのはくやしいけれど、あえて、思ったことを堂々と声に出した。今夜の私は、ひと味違う。

「お付き合いしていれば、よいと思います」
「お付き合い、ですか」
「結婚を前提とすれば、尚よろしいかと」

 ここまで御膳立てすれば、あとは道枝くんが導いてくれるだろう。やさしい会話は阿吽の呼吸、お互いの協力のもとで成り立っている。

 こちらの期待に応えるように、姿勢を正した彼が、私の名前を静かに呼んだ。

「小林羊さん」
「なんでしょう、道枝寧路くん」

 箸を置いて、背筋を伸ばす。タイミング良く、店内を鳴らすBGMがボカロに変わった。それだから、このお店は最高なのだ。

 機会的なイントロをたっぷり聴いてから、美少年もどきが話しだす。

「人生とは、妥協と諦めの連続でございます」
「なるほど」
「そこで、お得な提案です。ここらでひとつ、僕で妥協してみるのはいかがでしょう?」

 道枝くんらしからぬ、謙虚で弱気な提案だ。うかがうようにこちらを見てくるので、我慢できずに笑ってしまった。

 それから、らしからぬ、は、こちらの傲慢だったと反省した。普段は見せていないだけで、彼にも不器用な一面があったのだ。

「それは、妥協にならないのでは?」

 当たり前のことを言ったのに、道枝くんは驚いた顔をして「え、、え?」と2回も聞き返してくる。あまりにもかわいかったので、ちょっと揶揄うようにして、置いていた箸を手に取った私はフライドポテトをひとつ摘んで見せたりした。

「このフライドポテト、おいしいよね」
「それは、同意です」
「ひとつ食べたら、もうひとつ食べたくなって、やめられなくなる感覚のことを、私は〝おいしい〟といいます」

 何を言ってるんだ?と小首を傾げる道枝くんは、やはり、かわいい仕草をしないとしんでしまう病気らしい。完璧な角度と、無垢な瞳だ。子どもに言い聞かせるみたいに、イージーな謎を解き明かすみたいに、私は言葉を選んでいく。

「私は道枝くんに対して、それと近しい気持ちを抱いています。もういちど会いたくなって、会っても会っても会いたくなって、やめられない」 
「それって、」
「人はたまに、その感覚を愛とか恋とか呼ぶそうです」

 
 ともに、破滅しませんか? そんな誘いを付け加えると、道枝くんはけらけら笑った。それから、「まじで、すきです」と短い告白をやさしく添えた。

 どうしようもなく照れ臭くなって、私もハイボールをごくごく飲み干した。ああ、酔うな、これ。

 照れ臭さが伝染し合っているらしく、向こうも無言のまま追加でそれらを注文してくれる。道枝くんはお酒に強いわけじゃなさそうだけど、自分が心地よい範囲をわかっているので飲酒がじょうずだ。何をやってもじょうずでうらやましい。

「僕らは、こいびと、ですか?」
「いま?」
「いま
「微妙です」

 ぷつんぷつんと雑に切られたような単語で紡がれるへたくそな会話だ。ぬるく否定した私に、道枝くんはちょっとだけ身を乗り出した。

「こいびとって、けっこう楽しいらしいですよ。おすすめです」
「疑わしい」
「小林さん、僕と恋人になりましょう」

 どストレートな告白は、逆になんだか怪しいものだ。もはやふざけているみたい。即答するのが嫌だったので、顎に手をかけて悩み中のポーズをとる。

「3営業日だけ、考えさせてもらっていいですか」
「あなたの場合、深く考えてもロクなことがありません。僕に任せたほうがぜったいにうまくいくのです。この世に〝絶対〟など存在しないけど、これに限ってはぜったいです。さあ、安心して身を預けなされ」

「なにかの悪徳商法かしら、おいくら万円?」
「無料です。無料で道枝がひとり貰えます」
「一家に一台、道枝寧路」
「僕は、小林さん限定モデルの道枝寧路です」

 必死さが見え隠れするのがかわいくて、私はまたも笑ってしまった。こんどは、道枝くんまでつられて笑う。

 めちゃくちゃ楽しいから、この瞬間をジップロックに入れて冷凍しておきたい。いまの感情も空気も温度も、まるっと時間ごと保存したいのだ。

 その可愛さに免じて、私は偉そうにコホンと咳払いした。きょうの私は、ゆるしがち。心の器だって、大は小を兼ねるはず。

「私たちは、こいびとになりました」
「いま?」
「いま」
「わ、やった〜!女性が限定物に弱いというのは、本当だったんですね?」
「ちがうよ、私は道枝寧路に弱いんです」

 いつになく、素直な言葉が口から出てくる。酔ってるせいもあるのだろうか。酔ってるせいにしておこう。道枝くんはとろけるように目尻を緩めて、やわらかく微笑んだ。夜空を透かす窓にカーテンが靡くようなやさしい光景だ。

 日常のすぐ隣にある、非日常。ふつうの金曜日で、誕生日でもクリスマスでも何でもないきょうだけど、そんなスペシャルを感じている。

「小林さんと松葉さんって、ふたりで何の話をするんですか」
「いっぱい話すよ、仕事のこととそれ以外のこと」
「いっぱいってどれくらいです?」
「それはもう、星の数ほど」

 てきとうな私の返答に道枝くんは、きれいな顔を嫌そうに歪めた。じぶんから振ってきた話題のくせに、それからすぐに転換させる。

「小林さんは、星がすきですか?」
「ふつうだな、でも、面白いよね」
「何億光年って、めちゃくちゃウケません?」
「ウケる、億ってだけでも超大きいのに、さらには光だよ?すっっっごく速いの」
「しかもそれを年yearsで数えますからね。個とか枚とかと同じ単位のグループに入ってるのがもう、幼稚園におじいちゃんが通ってるみたいな不似合い感です」

 道枝くんは、さまざまな事柄を言語化するのが得意なひとだ。だから話していて楽しいし、私ひとりでは考えなかったようなことを、あえて言葉にしてくれるからさらに面白さが増してくる。

 私の道枝くんへの評価って、高すぎるかもしれない。性格は、そんなに良くないって知ってるけど。まあ、性格が良い人間とこの私がお付き合いなどできるはずもないので分かりきったことである。

「私、宇宙は好きかもしれない」
「それは、そうです。あれは、魅力がありすぎるので好きになるしかないんです」
「地球できらきらして見えてる星は、もう、とっくのむかしに宇宙では存在しなかったりするからさ、なんか胡散臭くてべつにってかんじ」

 この席からは外が見えないけれど、夜空には星が出ているのだろうか。都会だって、月くらいは見える。そう考えると月だけは信用ができるね。近いし、事実として存在するから。

 昼間は青くて見えないのに夜になると透け透けになっちゃう宇宙は、暗闇に隠れないからやっぱり不思議だ。不思議だけど、どうでもいいな。

 そんな遠くを見上げなくとも、私の近くには面白いことがたくさんある。退屈しない世の中だ。

「星、綺麗だけどね」

 ゆるされたいことばっかりの私は、ゆるしてあげることを知らなかった。今日わかったことだけど、ゆるしてあげるのって案外気分がよいものだ。

 空っぽになったお皿が店員さんによってさげられていき、道枝くんが烏龍茶に乗り換えた。ふと、腕時計を確認すると、短針は10を過ぎている。

「道枝くん、私、そろそろ帰らねば」
「お急ぎですか、シンデレラ」

 ここまであっという間だったし、私だってほんとうはもっとずっと一緒にいたい。いたいけど、いたくない。なんたってこちらは、小林羊なのである。生まれ変わったわけでもないし、許せるものがすべてじゃない。

「部屋をね、どうしても、片付けたくてうずうずしてるのよ」
「ふうん」
「部屋の散らかりが気になってしまって、道枝くんに集中できない」
「仕事と恋人と片付け、どれがいちばん大事なの?」
「うああ、めんどくさいなー」

 そうは言ってみるけれど、これに関しては全面的に私に非がある。そして、拗ねる美少年はだいぶかわいい。折衷案を考えてみるけれど、どうしたって、今夜はひとりで帰りたい。服が散乱したベッドでは眠れないし、よそに泊まるにしても気掛かりだ。

 解決策になるか分からないけれど、ひとつの提案を試みた。

「こんど、小林邸に遊びにきたら?」
「こんどって、いつですか」
「直近だと、あしたの夜に泊まってもいい」

 柔く睨みつけてきていた二重まぶたが、途端にふにゃりと緩む。恋人になった道枝くんは、これまで以上に甘ったるい。

「約束してもいいですか」
「約束するよ、詳しいことはあとで連絡ください」
「必ず、連絡しちゃいますね」

 僕のほうから、とはっきり言葉を足したのは、今週の我々の失態による学習だ。道枝くんは、やっぱり賢い。

◾️

 そこからまたすこしお喋りをして、割り勘のお会計をして、夜道を駅までぽとぽと歩いて、たまに、ゆるりと手を繋いで、離して、また繋いで離して、私たちはそれぞれ別の電車に乗り込んだ。

 またあしたねと手を振る間際、離れ難くて無言の10秒間があったりした。地下鉄で見つめ合う男女のアレに、まさか私がなりさがるとは思ってもみなかった。もう二度とごめんだけど、今夜だけは、まあいいか。

 地下鉄でひとりになってから、「こいびと、」と小さく呟いてしまって恥ずかしくなった。まだ実感はないけれど、事実があるのでありがたい。

 ふわふわと羽が生えたみたいな気分で、なるほど、これが俗に言う〝恋に浮かれたお花畑〟の脳みそかと納得した。脳内が綿菓子になるというのは、本当のことだったらしい。

 無事に帰宅してすぐ片付けを始めたけれど、その最中に[道枝寧路]からメッセージを受信したので、クローゼットが開いたまま一時中断されてしまった。

 あしたも会えるという約束があるので、世界はまだくたばってほしくない。どうせくたばるなら、せめて、もういちど道枝くんの声が聴きたい。

 そんなことを願う私には、決してなりたくなかったはずだけど。洗面台の鏡に映る歯磨き中の私は、きのうよりも可愛く見えた気がする。

 健全な金曜日のことは、ここまでにする。なぜなら幸福すぎるせいで、私らしいことを言えないからだ。

 どうせこちらが望まずとも、不幸や試練は勝手に降ってくるから問題ない。御託を並べるのは、その後でもじゅうぶん間に合う。

 おやすみなさい、が受信されたのを確認して返事をせずに瞼をおろした。ひとりきりの、やさしい夜だった。

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